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いない人だったころ

人生で幾度か、「いない人」として扱われる経験をした。子どものときはクラスメートから、おとなになってからは一緒に働いた人から。彼らはまるで私がいないかのように通り過ぎていき、いないかのように目の前で私を悪し様に罵った。あまりに自然だったので、自分は透明人間にでもなったのかと驚いた。でも私は確かにいて、指もつま先も見えるのだった。

付き合っている恋人から「いない人」扱いされたこともある。ふたりで暮らしているのに、関係を徹底的に秘匿された。私の目の前で、友達に「彼女?ずっといないよ」と言うこともよくあり、私はいつもあいまいな笑いを浮かべていた。いない人みたいに扱わないで。帰宅してそう訴えると、彼は不機嫌になって押し黙る。私が投げかけた言葉はいつも、行き場もなく宙に漂っていた。

今になって考えると、「いない人」でも、人であるうちはまだよかったのだ。その後付き合った恋人にとって、私は悩み事を聞いてくれる人形か何かだった。付き合って4年目、「先週、大好きな人に振られて絶望している。手はつないでもいいけど体の関係はダメだって」と言われた。その次の恋人にとって、私はATMだった。もはや人のかたちでもなくなっている。壊れたら、おしまい。

大人になってからの人間関係というのは、自分で選択できる。逃げ出さなかったのは自分の責任だ、そして――私はゆっくりと、自分を人間でなくしていったのだと思う。

感情をなくしたまま作り笑いがうまい死体みたいになったころ、今の夫に出会った。正直なところ、驚いた。おなかは空いていないか、寒くはないか、しっかり眠れているか。彼はこまやかに気にかけては、会話をしながら理解しようとしてくれ、また私にも自分のことを教えてくれた。どんな人生を歩んできたのか。何が好きで何が嬉しいのか。理由もなく不機嫌になって黙り込んだり、うそをつくような素振りをしたりすることは一度もなかった。LINEを送れば返事が来た。ひとつひとつの行動が、砂を噛むような毎日を優しく潤していった。一度だけ小さな言い合いをしたが、彼はくるっと踵を返して出ていくのかと思ったら、紙とペンを手に戻ってきた。
「アジェンダを作って話そう」
会議かよ。思わずツッコミそうになったが、彼は至って真剣なのだった。私が何を悲しんでいて、何をするとそれが治って、どうすれば悲しみを繰り返さずに済むのか。彼は大きなのびのびとした字で書きながら、理解し解決しようとしていた。

私を人間として扱ってくれた。
なんて嬉しいことなのだろう。

「汲む」という詩がある。茨木のり子さんのものである。その一節を引用しよう。

初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始るのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました
(『茨木のり子詩集』思潮社)

いない人だったことも、人でもなかった日々もすでに過去となった。「あいつは使える、あいつは使えない」とか「顧客の囲い込み」といった、ひとをもののように扱う言葉がますます苦手になって、私は今日も人間をやっている。でも無自覚のうちに、人を人とも思わなくなっているようなこともあるかもしれない。日々に疲弊するなかで、なにかに夢中になって、または恵まれた生活のなか瞳が曇って。堕落してはならない。いない人みたいだったあの日々を、人間として扱われなかったむなしさを、飲み込まれるような孤独を、できる限り長く忘れずにいたいと思っている。誰かを傷つけたりしないように。


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