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持てるならば健やかな怒りを

ふっ、と目が覚めてスマホに目をやると朝の5時だった。窓の外はまだ真っ暗で、もったりとしたぬくもりを宿す毛布に顔を埋めて画面をタップする。すると覚えのないメモ帳が開いており「正しい怒りを忘れない」という一文があるではないか。実におだやかでない文言である。

何かの神託や霊言ならかっこいいが、おそらく自分で音声入力したものだろう。私はたまに夢のなかで仕事をしているらしい。そのなかで忘れていた〆切を思い出し、がばりと起き出してはPCをひらいたり、スマホにアイデアを音声入力していたりすることがよくあるのだ。そして真夜中にPCの前で憮然としたり、意味をなさない言葉の羅列に頭をひねったりする。こうして文章になっているのは珍しい。

  *  *  *

怒りの感情を表現する、ということを自分に禁じたのは7年ほど前である。とある事情でーーというより例によって例のごとく異性関係なのだがーーそうすることを選んだ。選ぶ以外に方法がなかったのだ。腹が立っても心を殺して笑顔を作った。「仕方ないよね」「まあ、いいよ」が口癖になるにつれ表現しないことに慣れ、感情は鈍麻した。心というものは面白いもので、怒りだけを抑えたつもりが、ほかの感情にもどんどん波及していった。面白い、楽しい、嬉しいといった感情がぽろぽろと欠落していくのだ。砂を噛むような日々だった。

そこから心理学を学んだことを契機に、なんとか自分自身を取り戻すに至った。とはいえ、今でもあまり怒ることができない。待ち合わせで何時間も待たされた挙句ドタキャンされても、約束をやぶられても、ひどい言葉を投げつけられても、悲しみ以上の感情が湧いてこないのだ。「そういう事情なら仕方ないよね」で笑って許してしまう。かくして作り笑顔には磨きがかかり、穏やかで寛容な人と評されるようにもなった。

怒りは決して良いことというわけではない。怒りを感じるたびにSNSに書き込むようなタイプの御仁には辟易するばかりだ。たとえば天候不順や電車の遅延に怒る人がいるが、怒っても雨がやむわけでも電車が早く走るわけでもない。それならば「いやー雨女の面目躍如ですな」「電車の中でダッシュしよう」といったユーモアでもかまして笑っていたほうがよっぽどいい。

いやな目に遭わされたときだって、怒る以外の対処法はたくさんあるのだ。ひとつは「人は人。その人がどう自分を扱おうが、人格が損なわれることはない」と割り切る方法だ。「あの人はかわいそうだなあ、こんなところで人望を失って」と憐れむのも良いかもしれない。

でも、自分が粗末に扱われたときには、怒りをきちんと感じた方が良いのだと思う。感じないふりをしたり、悲しみのまま留めてしまうことは、無意識のうちに自尊心をひどく傷つけている場合があるからだ。かつての私は「自分は大切にされるほどの魅力がないんだな」「大切にしたいと思ってもらえない程度の人間なんだな」と思って自分を追い詰めていった。こうなるともういけない。おかしいだろうと思わなければいけないのだ。自分は確かにここにいるし、ものじゃなくて心があるんだと。

怒りを表に出すか、出さないかは重要ではない。アドラーが「感情は支配されるのではなく利用すれば良い」と言ったように、使うことが大事だからだ。その人からそっと距離をおいたり、話し合いをして和解を試みたりできれば、十分に怒りという感情の効用はある。負の感情を握りしめ続けずに、完了ステータスにして次に行くことこそが、健やかな怒りの運用ではないだろうか、と私は思う。

まだ夜も明けない暗い部屋のなか、いろいろな思い出がフラッシュバックする。いつか、いつかうまく怒りを感じることができるようになるだろうか。活かしていけるようになるだろうか。これを音声入力した自分は果たして怒っていたのだろうか、それとも悲しんでいたのだろうか。真相は藪の中ならぬ夢の中である。


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