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「人を好きになれない」から「アセクシュアル」へ〜そして現在の課題など

このnoteをつけはじめてから、だいぶ経ちました。
祈っても祈っても出口が見つからない、ともがいている一方で、時間の経過によって、もがき苦しむ内容が変わってきています。
現在の状況について、一旦まとめてみようと思います。

これまでの人生でずっと抱えてきた「生きにくさ」が言語化し、具体的に認識できたのは2012年のことでした。
それは、「人を好きになれない」という問題です。
異性を恋愛的に好きになれない(同性という選択肢は自分にはなかったので)、そしてそもそも男性が怖い。さらにいうなら、女性であっても初対面の人は怖いしなかなか親密になれない。
その原因として、「小さい頃にいじめられた」ことによる、「自己評価が低い」ことと「いじめてきた人たちを赦せていない」という2つのことが思い当たりました。
この場合の「赦す」とは、キリスト教用語になりますが、英語でいうところのforgiveであってpermitではありません。念のため。

さて、この問題は、それまでも潮の満ち引きのように表面化したり沈静化したりを繰り返していたのですが、「これが問題だ」と明確になったのはこの頃です。
このときから、「人を赦せるように」「自分を愛せるように」というのが、わたしの祈りの課題になりました。

数年経って、男性を含む他者との付き合いが以前よりもスムーズになった、と感じていたころ、そのバランスが一気に崩れるような出来事がありました。
このときは本当にひどくて、心療内科に通って薬を出してもらったり、婦人科に行ってホルモンバランスを検査したり、思いつくことはいろいろとしてみました。
検査的には、異常はありませんでした。薬も効きませんでした。
そして、このとき「クリスチャンに相談する」ことによって、傷口がいっそう開くという経験をしました。これは今でも尾をひいていて、クリスチャン同士で腹を割って話すのが怖いと、少し感じています。

仕事をしていても、友達と遊んでいても、本を読んでいても、寝ようとしても、精神が不安定になり涙が止まらない、ということが、半年くらい続いたでしょうか。
このときから、よほど親しくない人とは会うのが怖くなり、親しくても身構えてしまうという癖がつきました。今でも、人に会うときは気合をいれないと先に進めません。


この暗黒時代も、「人との関係をきちんと作れない自分」は「過去のいじめを赦せていない」、罪深い存在なのだという罪悪感が付き纏いました。
クリスチャンとして、神様に罪を赦された者として、他者がわたしに対して犯した罪を赦せていないのは、まったく正しくないことでした。そんな自分が不甲斐なく、罪深さに慄き、そして祈りつつも悲嘆にくれていました。
出口がまったく見当たらなかったからです。

この後の数年は、少しでも打ち明け話になりそうな会話は、怖くて一切できなくなりました。あるいは、そういう状況になりそうだと感じるたびに、喉が詰まって涙が溢れるようになりました。
人に会うのが、会話をするのが、怖くてたまりませんでした。


そんななか、「内向型」という性質について知りました。
人間関係の持ち方や自己のあり方に関するカテゴリーで、内向型の人は広い交友関係よりも少数との関わりを好むこと、自分だけの時間を過ごすことで精神的な疲れを回復することなどを知りました。
自分はこれだな、と腑に落ちました。
わたしが人間との繋がりに固執しないのは、好きとか嫌いとかいう感情のせいではなく、そもそもそういう傾向がある、というだけのことでした。
「自分は愛情の欠けた、自己中心的な人間なのでは」と恐れていたことが、恐れる必要がないのだと知りました。
人との付き合い方が、罪の結果ではないというこの気づきは、途方もない開放感に繋がりました。

時を前後して、「アセクシュアル」(アセクシャル)という言葉にも出会いました。
他社に対して恋愛感情や性愛が向かない性的指向のことです。
(現在では恋愛対象を持たないアロマンティック、性愛対象を持たないアセクシュアル、と分けて理解しています。)
これも、すとんと頭に入りました。

ああそうか。
わたしはこれなんだ、と。

いったん「そうだ」と感じた後、実際に受け入れるまでには数ヶ月の時間を要しました。
日本語での情報が全くと言っていいほど出てこない中で、英語のサイトも読み漁り、ようやく「自分はアセクシュアルだ」と納得できるだけの情報を手に入れました。
目から涙が溢れてきました。
ようやく、自分が恐れていたものの正体がわかって、それが恐るようなことではないと、わかったのです。

この気づきは、精神に安定をもたらす一方で、さらなる混乱も引き起こしました。
別の心療内科に通うようになり、カウンセリングも受け始めました。

カウンセリングを通して、また自分なりに調べて情報を更新していくことによって、今ではかなり落ち着いて自分に向き合えていると思います。
この1年ほどは、物理的な他者との交流が極端に減ったことも、いい方に働いたようです。

「内向型」「アセクシュアル」という言葉に出会ってから、2年ほどが経ちました。


「人を好きになれない」問題が言語化してから、もう10年が経とうとしています。

ずっと苦しんできました。
自己嫌悪と罪悪感にまみれて、出口を求めてきました。
いつしか、この苦しみに出口はないのだろうと、求めることを諦めていました。

今でも、この穏やかな絶望感を抱き続けています。

鬱傾向があからさまにでていたときも、ある程度落ち着いていたときも、
「こんなわたしは本当の私じゃない」と思っていました。
「わたしじゃないわたし」になってから、もう5年以上が経ちます。
今それなにり交流のある人たちの大部分は、「わたしじゃないわたし」しか知りません。
「本当のわたし」はどこにいるのでしょうか。
そんなことを考えるのも、最近では少なくなってきました。
「本当のわたし」はどこかに行ってしまって、「わたしじゃないわたし」が今のわたしになっています。


さて、「人を好きになれない問題」は、ある意味では解決し、またある意味では解決していません。

そもそもの自己分析で発見した「過去のいじめを赦せていない」という原因は、そのまま残っています。
わたしは今でも、初対面の人が苦手です。人にどう思われるのか、相手がどういう人なのか、どうしても怖いと思ってしまいます。
特に男性は苦手です。初対面でなくても、なんとなく関わりたくないと思います。たとえ相手が人格者だと分かっていても、この恐怖感は拭えません。
これは、わたしがこれからも向き合っていかなければならない課題です。

それとは別に、「人を好きにならない」のはアロマンティック・アセクシュアルだからであって、仕方のないことだと踏ん切りがつきました。
そして「自分はそういう性質なのだ」と分かってからは、自分を「欠けた人間だ」と感じることもなくなり、精神状態はいたって健康になりました。
この認識が正しいのだと、強く実感します。


同時に、新しい問題も浮上してきました。
「アセクシュアル」という性的指向が、社会的にほとんど認知されていないために、自分が透明人間になった気がするのです。
透明だから周囲は気がついていないけれど、足を踏まれれば痛いし、ぶつかられたらよろけて転びます。
ところが、血を流していても誰も気が付かないので、手当をしてもらえません。
透明な傷と血に対する医療道具がないので、自分でも手当の仕方がわかりません。

この傾向は、キリスト教界内ではさらに強まります。
存在が認識されていない上に、声をあげても聞かなかったことにされます。
そもそも性的な話は、一般にクリスチャンの中ではタブー視されていて、ヘテロの恋愛関係でさえも、なにかしらの「神々しさ」の範疇でしか語られないのです。
マイノリティの話なんて、ようやく同性愛者に目を(そても敵意と困惑の視線を)向け始めたばかりです。

「性愛があるのが当たり前」という社会や教会の中で、これまでどれだけ傷ついてきたのか。
「アセクシュアル」であるという認識を深めるたびに、これまで知らずにつけられてきた傷が痛むようになりました。
これ以上傷つけられたくない、という思いは強くて、コミュニティに近寄るのが怖くなっています。

それを乗り越えるほどに他者に興味もなければ、積極的でもないので、今のところは可能な限り距離を置くことで自衛をしています。
どうじに、このままではいけないだろうとも思います。
自分を守りつつ、きちんと人間関係を構築していくことが、当面の課題になりそうです。

同時に、アセクどころかほかのセクシュアル・マイノリティについてもほとんど認識していない日本のキリスト教の中で、わたしが他のアセクのためにできることはなんだろうか、と考えています。


以上が、2021年6月時点での、わたしの自己認識と問題点です。
初めの頃からは、だいぶ変わってきました。
これからも変わっていくのでしょう。

でもやっぱり、出口はないし希望は少ないと思うのです。
絶望を友として歩いていくしかないのだと思います。

この絶望が、希望に変わる日は来るのでしょうか。
死ぬときかな。クリスチャン的な意味で。


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さまざまなセクシュアリティに出会ったのはこの漫画↓

アセクシュアルについてはこちら↓

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