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ほかのものの身体を借りて見てみるということ。

環世界という概念を知れたこと自体がおもしろかったのだけど(というか釜屋先生がすべておもしろかったけど)、特に興味深かったのは、環世界の交差、交叉の話。

どれくらいほかのものになりきって世界を見ようとするか(お話の中では、ミミズになる話だった)ということとか。
あるものになりきろうとしてもそのものになるわけではなくて、その何かほかのものになりきろうとすることでそこから自分を見にいくのだ、ということとか。

自分を見るのに、自分そのものを理解するとか観察するとかでなく、ほかのものになるっていうアプローチがおもしろいなと思う。
ほかの視点から見ることで、違う視点からの別の自分が見えるようになるのかも、とすごい納得な気もする。

ほかの視点から見る、というので思い出したのは、エンプティ・チェアのワークだった。
自分視点のときには出てこない言葉が、想定した相手の椅子に座って自分に声をかけてみたら、思いがけない言葉が出てきたりするじゃん?
自分自身でいるときにはまったくわからないことが、自分の中のパーツになりきったら、何かを訴えたりするじゃん?
今は何も思ってないつもりだったのに、子供の頃の自分に戻って何かを求めてたりするよね?

そうやって、違う視点になることで、自分のままでいたら見えていなかった、自分の感情などが浮かびあがってきたりする。
自分でいたままでは認めたくなくて出てこなかったものが、相手の視点を借りて出せたりする。

それは、ひたすら何かになりきって別の視点から自分を見るのとは同じでないのだけど、自分ではない身体になってみるという点が似ているなぁと思う。

第三者が話を聞いてフィードバックしていくというのも、ほかの人からの視点で自分の話や自分のことを見ていく方法だ。
キャリコンとかグラレコでやることってそういうことだと思ってて、私はその方法が好きなのだけど、なりきるのとかエンプティチェアとかは、それとはまた違う、ほかの視点から自分を見ていく方法で、おもしろいなぁと思う。

ただ他者からのフィードバックとして、その人のことを見せていくよりも、難しそうだけどパワフルかもなぁ。
自分でなりきろうとして、そこから見ようとしないと見えないけども、他者から見せられることで気づかされるのとは違う、ほかの身体を借りることで見えてしまうものがあると思う。

その差ってやっぱり「身体」なんだなぁと、自分のままで何かを見るのか、ほかの身体を借りて自分やものごとを見てみるのか、その違いで生まれる見え方の差な気がして、結局身体というものに行きつくのがおもしろい。
(まぁ今私が、身体とか身体性とか気になりすぎてるからかもしれないけど。)

とか思うと、自己認識とか事実の見方のひとつの方法としても、もっと身体やそれを取り巻く世界や考え方を勉強したい気分。

とりあえずいったんイベント感想ここまでにして、またアーカイブとか本とか見ようと思う。

***イベント感想記事まとめ***


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