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「日本語が亡びるとき」を読んで、英語教育を考える〜全員が一律に学ぶ意義とは?

水村美苗の「日本語が亡びるとき」を読む。第7章は英語教育と日本語教育について触れられており、次の3つの方針について賛成・反対、メリット・デメリットについて討論せよ、とのことだった。これが、なかなか面白かった。

3つの方針とは、こちら。Ⅰ「国語」を英語にしてしまうこと II 国民の全員がバイリンガルになるのを目指すこと Ⅲ 国民の一部がバイリンガルになるのを目指すこと

I 「国語」を英語にしてしまうこと
反対:せっかく確立している日本語を捨てて、英語を「国語」にするメリットは、一部の人にしかない。大抵の人は、英語が必要ない生活ではないか。

水村は、「「英語公用語論」には反対するが、政府の無策を前にして「英語公用語論」を唱えずにはいられなかった人たちの思いには、手を取り合って泣きたいほど共感する。」と説いている。(P271)

Ⅱ 国民の全員がバイリンガルになるのを目指すこと
反対:「英語公用語論」には反対だし、国民総バイリンガル社会の実現は、日本には不必要ではないか。

水村は、「日本はⅡを選ぶ必然性が全くない」と述べている。(p274)

Ⅲ 国民の一部がバイリンガルになるのを目指すこと
賛成: 日本が必要としていること 

水村は、「世界に向かって、1人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材が必要。必ずしも日本の利益を代表する必要はなく、場合によっては日本の批判さえすべき。ただし、日本語を母語とする人間がそこまでいくのは、並大抵のことではない。」と述べている。(P276)

「日本人が一丸となって、稚拙な英語で反論しても意味がない。英語圏の人間にもなかなか書けないような優れた英語をかける人材が存在し、今季よく事実を告げるようにするしかない。しかもその人材が、ある程度の規模を持って存在しないと」

「優れたバイリンガルが十分な数で存在すること → この先必要
 しかし、 すべての国民に同じ英語教育を与えている限り、このような優れたバイリンガルは絶対に育たない。」

「平等主義を捨てること。」

Ⅲを選ばなければ、いつか日本語は亡びる。日本語が何もしなくても生き残れると、無邪気に信じている(P278)

印象に残った場面を挙げるところで、ひとりの院生がここを指摘した。

p285
更なる悲劇は、英語ができなくてはならないという「強迫観念」が社会の中に無制限に拡大していくことにある

p289
「 強い動機を持った人は、学校の外で自主的に学べばいいのである」

強迫観念としての英語学習。
英語を身につけなければならないという強迫観念。

アスリートを育てるのに学校教育に期待しないよね?
ピアニストを育てるのに学校教育に期待しないよね?
なんで英語だけ?

そもそも、英語教育の目的とはなんぞや。全員が英語を一律に学ぶ必要、あるんかな。

高校生の理系次男が今日もつぶやく。「古典を勉強しなければならない意味を誰か教えてくれ。」やりたい勉強だけやるんじゃ、何でダメなんだ?ホントだ。根本的な問いだ。

全員が一律に学ぶ意義。

全員に学ぶ権利を…から発展してきたのかな。今のところ、私には答えが見つからない。でも、この辺りが今の教育のぶち当たっている壁のひとつなんじゃないかとも思ったりする。

モヤモヤする・・・・。




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