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残るもの、残らないもの

紆余曲折を経て、先日とうとう菊竹清訓による都城市民会館は、解体が決定しました。
この顛末を通した考えたことのメモ。

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菊竹さんの建築はとにかく才気走っています。
どの位才気走っているかというと、実際に見ると才気が立ちすぎて、むしろ建築が霞むレベルです。
建築というより結晶みたいな感じで、全部じゃないですが奇跡みたいに思える作品もあります。
上手いとか、そういう感想を超えます。

建築小僧としては垂涎の作品群なのですが、一方で微妙ーーーに建築の体感がずれる感覚があるな…という感じをずっともっていました。なんというか、内部に入ってもずっと外から見ている感じで、建築の中に入った感覚が薄いのです。
独特のアメニティ感の欠如というのか…わかる人にだけわかればいい孤高さというか。
つまりはエロがない。スピリットが立ちすぎて肉がない感じ。
先の結晶云々はもちろん比喩ですが、結晶は重力より段違いに強い分子間に働く力で出来るものですから、重力よりもっと強い自律的な力の存在を感じる、ということかもしれません。ちなみにここでいう重力ももちろん比喩で、言うなれば人間社会が建築を成立させる時に作用する諸事情、ということになるでしょう。

その点、例えば丹下建三や前川國男の作品は対照的で、遠目ではダイナミックでブルータルに見えて、近づくとおもてなし感に溢れてるといつも思います。近づいた時のおもてなし感はレイモンドなんかもそうです。(ただしレイモンドは遠目で見えるほどの存在感には欠ける。…遠目も比喩ですね。)
エロ…というか、丹下さん前川さんの場合は雑味の方が適切かなぁ。
内部に入ると外から見た時の求心的な存在感が薄れ、その体験は雑味に溢れ楽しい。
ちなみに安藤建築は私の個人的見解だと、雑味は薄くエロ側に大きく振れています。
菊竹さんはエロも雑味も極僅でスピリットが溢れてます。

建築における雑味の欠如とは、つまり建築を理解する時のチャンネルが限られているということだと思います。平田さんの言葉で、チャンネル=絡まりしろ、と言ってもいいです。
菊竹建築の回路はわかる人にだけわかる仕様だが、例えば丹下建築は特に建築に詳しくなくても何かしら理解できる引っ掛かりがある。それが、つまりは絡まりしろということなんだろうと思います。
建築における絡まりしろとは、別に座って外見るカフェスペースが多いことではなく、こうした懐の深さを指すのだと思います。


都城市民会館は明らかに突出した建築作品であるにもかかわらず、保存を望む声も大きかったにもかかわらず、最終的に地元は解体という選択をしました。出雲もそうです。
建築プロパーからすれば誠に忸怩たる思いです。あまりに勿体ない。
でもうちらが勿体ないからアンタお金出して保存してね、ってわけにはいきません。当然です。
一方、丹下作品のすべてを網羅してるわけではないですが、代々木の競技場は改修して使われ続けますし、クェート大使館は一時建替えが本格的に進みかけたけれど、どうやら延命が叶いそうなもようとのこと。レイモンドの群馬音楽センターもしかり。
平たく言えば愛される建築ということですが、「愛される」の中身はチャンネルの多さ、なのではないかと。
地元が負担を背負いながらそれでも残すかどうか、という背に腹は変えられない局面に立った時、最終的に効いてくるのが、建築物としての価値もさることながら実はこうした多チャンネル性、あるいは懐の深さなのか…ということを今回の件を通してすごく思ったのです。
最終的にはその建築が自分にとって意味のある場所だと思う人がどのくらいいるか、なのでしょう。

この件については保存運動の方法論という切り口もあると思いますが、それとは別に、社会に残っていくものと残らないものを分ける容赦ない分水嶺が可視化されたという印象を持っています。

ちなみに、私自身は都城市民会館はまだ見たことはありません。
6月の公開日に見学希望を出しているので、ぜひ行きたい。全国から殺到しそうですが…。

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