けんか、してますか?

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Perch.のお手紙 #86

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小さい頃から、けんかが苦手です。
自分がけんかをするのはもちろんのこと、けんかをしている人を見るのも、胃が底の方からきりきりとして、その場から消えてしまいたくなる程に苦手でした。

感情的なやり取りがすれ違っているのを見るだけで、無力感みたいなものにがしっと襲われてしまうのです。お互いにすきなはずなのに、何故にその様に争うのだろうか、とずっと思って来ました。

私は心理学を志していた時期があって、大学からの6年間勉強をしたのですが、心理学を勉強したいというモチベーションの一つに、無駄な争いを避けられる人になりたい。自分の気持ちをぴったりとした言葉で伝えることを通して、また、人の気持ちをよりよく理解することを通して、というものがあった様に思います。

けんかは、相手の気持ちを理解しようと努力をすれば、また自分の気持ちを正確に伝えることができれば避けられるんじゃないだろうか、けんか(人それぞれにけんかの定義は異なると思うけれど)の様な、それぞれが思っていることをぶつけ合う様な激しい形にはならないんじゃんないだろう、と思っていたのです。


今週、大親友と大喧嘩をしました。

普段はお互いにとても温厚な我々。

私は私の気持ちをなるべくぴったりな様に伝えたつもりだし、相手の気持ちも十分に汲み取っているつもりなのに、こんな風にすれ違うとはなんでなの?と思っている間にあれよあれよと状況は悪化の一途。
もう相手が何を言っているのか全然わからん、私だって何を言ったらいいのか、全然わからん。

こんなとき、私は面倒臭さのあまり、じゃあもう会わない、とか、じゃあもうしばらくは放っておきたい、となることしばしなのですが、今回は彼が諦めずに付き合ってくれました。


「なんでわかってくれないの?」「わかってくれるはずなのに。」「わかってくれなくて孤独だな、辛いな。」というけんかの素になるような気持ちには、相手に対する依存的な気持ちが多分に含まれている様に思いました。

仲が深まったり、自分の調子が悪かったり、ちょっと甘えてみたくなったり、そんな日々の些細な気持ちのバランスの変化で、けんかの素はむくむくと大きくなっていく。

けんかを収束させる糸口は、やっぱり私たちひとりひとりは違う人間で、根本的なところで自分自身の抱える孤独とか、悩みとか、難しさとか、苦しさとか、そういうものを完全に理解したり、肩代わりしたりすることはできなくて、自分が自分を選んで、決めて行くしかないんだな、と自分を引き受けること。

今まで受け止められなかった自分が蓋をしていた感情に気づいて、向き合って、けんかの素を小さくすること。

それぞれが分かり得ないそれぞれだからこそ、一緒にいておいしいものを食べたり、おんなじものを見て美しいね、と言い合ったり、お互いをそっと見守ったり、やさしい気持ちを持ち寄ることは特別なことだよね、とお互いに思うこと、感謝をすること。


けんかもわるくない。