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ヒカシュー座談会 吉森信を迎えて ~転換期の10年間を思い起こす試み~

40年に及ぶヒカシューの歴史においても、1990年代半ばからの10年間ほどは今からすると把握が難しく、いわゆる「空白期」にあたるといえなくもない。その大きな理由は発表された音源が乏しいことにあり、セルフカバー曲を集めた『かわってる』という力作は残したものの、オリジナルアルバムはついに世に出ないままだった。ただしライブは定期的に行っており、活動が停滞していたわけでもない。そして音楽の世界に限らず、携帯電話やインターネットの普及など、世の中全体が大きく変わりつつあった。そんな時期を振り返る試みとして、ここでは当時のヒカシューに参加していたピアニストの吉森信を迎え、メンバーにその頃のことについて語ってもらった。なお当時のヒカシューは本座談会の出席者である吉森信、巻上公一、三田超人、坂出雅海のほか、野本和浩(サックス)、トルステン・ラッシュ(サンプラー)、新井田耕造(ドラムス)からなる7人編成だった。


巻上 ヒカシューに入ったのはいつ頃だったっけ?
吉森 それがよく覚えてないんです。
三田 1996年の『かわってる』には参加してもらってるわけだから、それ以前ではあるよね。
吉森 そうなんですけど、時期がはっきりしなくて。坂出さんに誘ってもらったことは覚えているんですけど。
坂出 何かの仕事で一緒になって、それで知り合ったんだよね。住んでいた場所も近かったし。
吉森 よく車で送ってもらったりしていました。
巻上 新井田さんとは同じ頃に入ったんだよね。
吉森 ほぼ被りますね。
巻上 そもそも吉森くんが大阪から東京に出てきたのっていつ頃?
吉森 ヒカシューに入る少し前だったんです。だからまだ周りのミュージシャンとの交流もあまりなくて。
巻上 トルステンも一緒だった時期だよね。あの頃のヒカシューといえば、トルステンがサンプラーを、吉森くんがピアノを弾くっていうのがまずあった。
坂出 新しくキーボードの人が入るよってトルステンに言ったら喜んでいた。
吉森 そうなんですか? トルステンは凄かったですね。音がとにかく豪華だった。それに、とても勉強熱心で。いつも音楽理論の参考書を見ていて、勉強するっていうのはこういうことなのかと思いました。
巻上 武満(徹)さんのオーケストレーションとか研究していた。
坂出 あの頃のトルステンは作曲の仕事が多くて、すごく大変そうだった。それもあって吉森くんを誘ったんだけどね。
吉森 じゃあ行きますって返事したのは覚えています。何年だったのかはあいまいですけど。
三田 それからけっこう長いこといてくれたよね。
巻上 ただその間、出た作品は『かわってる』だけだった。
吉森 新曲はいっぱい作っていたんですけどね。
坂出 録音もいろいろやっていた。主にレコード会社に聴かせるための、いわゆるデモテープだけど。
吉森 当時は自主制作でアルバムを作ることがまだ一般的ではなくて、アルバムを出そうと思ったらレコード会社のお世話にならないといけなかった。
巻上 そうだね。その意味では端境期だった。

ヒカシュー新井田吉森トル入り

みんな忙しかった

吉森 あと思うのは、とにかくみんな忙しかったんですよ。トルステンだけじゃなくて。
坂出 それこそコブラを毎月やっていたりしたからね。
巻上 演劇もやっていたし。
三田 巻上がトゥバに行くようになったのもこの頃じゃなかった?
巻上 そうそう。それこそ毎年通っていたから。
三田 野本も梅津(和時)さんたちと海外ツアーに行ったりしていたし。
巻上 モロッコに行っていたよね。梅津さんとは、ぼくもベツニ・ナンモ・クレズマーで一緒に活動していた。
坂出 ぼくもコンピュータの仕事で吉森くんに曲を頼んだりしていたし。
吉森 そういえば、坂出さんが自分のスタジオを作ったのも、同じ頃じゃなかったですか。
坂出 そうだね。25年くらい前だから。
巻上 そういう意味では、みんな細かい仕事をいろいろやっていたんだ。
吉森 残念なのは、この時期に海外ツアーに行けなかったことですね。
坂出 それとレコーディング。
吉森 音として残しておかなかったのはもったいなかったと思います。ただやっぱり、さっきも言ったけど時代の境目だったんですよね。
三田 ライブはたくさんやっていたけどね。
吉森 (渋谷の)ラママによく出ていた覚えがあります。
巻上 そうやって活動はしていたんだけど、せっかくいいものを作っても、それをどう広めるかってところでうまくいかなくて。そういうジレンマはあった。
三田 あの頃、巻上公一が「これからはインターネットの時代だ」って力説してたのを覚えてるよ。絶対やったほうがいいって勧められて。
巻上 ネットを始めたのは95年くらいなんだけど、同じ頃に自分のサイトも作った。
吉森 まだ誰もネットをやっていない頃ですよね。
巻上 そうなんだよ。だから誰もサイトを見に来てくれない。せっかく作ったのに。そんな時代だった。
吉森 そもそも自宅でパソコンで作業すること自体がまだ珍しかったですから。
巻上 自分でも、時代の流れをいち早く読むことには自信があったりする。ただそれがお金儲けに結びつくかっていうと、そこは苦手だったりするんだけど(笑)。

機材の変化

巻上 あの頃のトルステンはそれこそサンプラーを駆使していたよね。
坂出 変なフレーズばかり作って、むりやり合わせたりして、そういう細かい作業をマメにやっていた。当時のことだから、どうしても音がはみでたりするんだけど、トルステンはもう構わず使っていて。
巻上 それもずいぶん便利になったよね。サンプリングも簡単になったし。
坂出 今だったらそれこそ、即座に自動で合わせてくれる。音を貼り付けるだけで、ピッチもタイミングもきっちり揃えてくれるから。
巻上 ただ期待した感じにはならないんだよね。新しい機材が出てきて、どう発展するか楽しみだなって思っていたら、そもそも何も起こらなかったっていうことが多くて。そこは興味深いね。
吉森 巻上さんがテルミンが使い始めたのはいつ頃でしたっけ? おれがヒカシューに入った頃はまだ使ってなくて、途中から使われるようになった覚えがあります。
巻上 手に入れたのは90年代なんだけど、ライブで使い始めたのは2000年に入ってからだから。そもそもレコーディングでテルミンを使ったのも「放射能」が最初だし。ただその後はまた3年くらい使わなかった。
吉森 即興演奏でテルミンを使うっていうのは巻上さんが最初なんですか。
巻上 そうかもしれない。
三田 きっちりした演奏になっているからね。効果音としてテルミンを使う人はいたけれど。
巻上 確かにそういう使い方が多かった。
三田 その後で、ヒカシューでもテルミンをもっと使うようになって。
巻上 トルステンがいなくなって、清水(一登)さんはピアノ中心だから、電子音をもっと入れたいっていう気持ちがあったんだよね。それでああいうスタイルになった。
吉森 今にして思うと、テルミンってヒカシューのイメージにぴったりの楽器だと思います。


バンドらしいバンド

坂出 さっきも言ったけど、吉森くんが入るからって言った時、トルステンは喜んでいたんだよね。
吉森 ぼくの方は最初、いろいろ気を使うところはありました。やっぱり同じ楽器だし、やりにくいって思われていないかなって。ただヒカシューのライブは、すごく楽しかったですよ。
巻上 充実してたよね。バンドはすごくしっかりした感じだったし。
吉森 トルステンもオーケストレーションを勉強して、その成果をヒカシューに持ち込んでいて。
巻上 そのおかげで、スロヴァキアの交響楽団を起用するアイデアが実現できたしね。あれで彼が注目されるきっかけになったわけだし。(『かわってる』収録の「日本の笑顔~テーマと14のヴァリエーション」のこと。この曲でのオーケストレーションが海外で評価され、後の活動へとつながった)
巻上 トルステンもVシネマの音楽をやってた頃は、大変な数の仕事をこなしていた。吉森くんも今は映画音楽をやっているけど。
吉森 アニメのサントラでテルミンを使ったり、即興で作曲したりしているんですが、そういう感覚はヒカシューから得たものなんです。それ以外にも、ヒカシューでは本当にいろんなことを学びましたね。それを持ち帰らせてもらって。
巻上 本当に? それは良かった(笑)。
吉森 音楽の作り方とか、ライブのやり方とか。これは真面目にそう思いますよ。後になって自分でも作曲を本格的に始めるんですけど、ずいぶん参考になりました。
巻上 ツアーも全部自分たちでやっているしね。
吉森 曲作りにしても、ヒカシューに入る前はもっと緻密にやっているのかと思っていたんですよ。昔のCDを聴いても、こんな曲どうやって作るんだろうって不思議だったくらいで。でも実際に入ってみると、そんなに細かく決めているわけではなかった。
三田 そこはもう、バンドだから。
吉森 そもそも、譜面がないっていうのが驚きでした。
巻上 譜面はほぼ使わない。
坂出 それでもうまくいってる。
吉森 譜面がないのはいいですよ。いかにもバンドって感じがする。
巻上 曲作りでも、みんなそれぞれヒカシューのための曲を書いてくるから、普段とは違うものが出来たりする。そういうところも面白い。
吉森 それで思うのは、今だといわゆるバンドらしいバンドが少なくなってるってことなんです。バンドとはいっても、メンバーみんなが譜面を見ながら演奏していたりして。
坂出 打ち込みだったりとかね。
吉森 だからヒカシューがとても羨ましく思えるんですよね。
三田 そういう意味では、あるようでない存在かもしれない。
吉森 そもそも、これだけ長く続いている日本のバンドもめずらしいんじゃないですか。
巻上 そういえば、ヒカシューが「放射能」をやった時、あれはクラフトワークのトリビュート盤に入っていたわけだけど、バンドらしいサウンドなのがいいっていろんな人に言われたな。他の人たちの曲はみんな打ち込みだったからね。
吉森 その後に、原発の事故があって。
巻上 そもそも「放射能」をカバーしたのは、六ケ所村にフランスからの核廃棄物が返ってくるっていう出来事があって、だからあの曲をやる意味があったんだけど、福島の事故があってから、その年のクリスマスのイベントでまた演奏したんだよね。やるべきだろうと思ったから。
坂出 あの頃に巻上さんが言ってたのが、ああいう大きな出来事があると、前に書いた詞が違う意味を帯びてくるってことだった。
巻上 聴く方も変わっているからね。
坂出 同じ曲を歌っていても、違いが出てくる。それはとても大きなことだと思う。
吉森 そもそも、巻上さんの歌詞が良いですよね。前から思っていたんですけど、面白いし、誰にも似ていない。まさにワンアンドオンリーな感じで。それこそ、詩集にまとめてもらいたいくらいです。
巻上 詩集ね。そういうのもいいかもしれない。
吉森 そういうものがあれば、巻上さんの歌詞の世界をもっと広めていけるんじゃないかと思うんですよね。
巻上 なんせ数が多いから、かなり選ばないといけないけどね。

この指摘から1年後にようやく 巻上公一詩集『至高の妄想』発売されました。http://makigami.com/makigaminews/2019/12/post-129.html


続けることの意義

吉森 あの頃、スタジオに入ってはライブのリハーサルもよくやっていたし、曲もいろいろ作っていましたよね。「珍無類」とか。
三田 「鯉とガスパチョ」もあの頃の曲だし、「入念」もそうだね。
巻上 曲も完成するまではずいぶん時間がかかっていたけどね。「入念」なんて二転三転したし。
吉森 今の「入念」は、ぼくが知っている頃のものとはずいぶん違います。
巻上 まあ、そんな感じでコツコツ続けてきたんだよね。
吉森 それが良かったし、ぼくとしてはうらやましいですよ。そこは切実に思いますね。ある程度の年齢になると、バンドを新しく作るのも難しいし、それこそヒカシューみたいな感じにはならないですから。
巻上 そういう意味では、バンドらしいバンドかもしれない。
吉森 それと、(オリジナルメンバーの)井上さんや山下さんともよく一緒にやらせてもらったのも良かったです。あの人たちが入ると、全体の雰囲気がまた大きく変わるんですよね。これぞヒカシューという感じで。
巻上 確かにそう言ってたね。
吉森 そういう人たちが最初から集まっていたというのが、ヒカシューにとってはまた大きいことだった。
巻上 井上さんは記録を残すことにも熱心で、そのおかげで『1978』(デビュー前のデモ録音集)も出せたんだよね。当時のテープが保管されていたから。
吉森 確かに、誰かが記録していないと、なかったことにされてしまいますからね。
巻上 その意味では13年もアルバムを出していなかったというのは、大きな問題だった(笑)。『かわってる』とクラフトワークのトリビュート盤くらいで。
三田 いろんなことはやっているんだけど、形になったものがないから。
吉森 当時のことをよく覚えていないのも、そこが大きいと思います。
坂出 やっぱり作品がないからね。他の時期だったら、当時のアルバムを前にすれば、いろいろ思い出せるんだけど。
巻上 『かわってる』は良かったけどね。いま聴いても面白いし。
三田 あれの達成感があったから、なんだか安心してしまったところはあった。その次に新作をやるはずで、準備もしていたんだけど。
巻上 何にしても思い出す必要はあるよね。今につながる重要な時期だと思うから。【その意味で、こうして集まって話が出来たのはとても良かった。今日はどうもありがとうございました。】

(2018年11月19日 都内にて収録)

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