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はなうたはじめストーリー

 1991年のはじまりは、香港だった。何を考えたのか、大友良英夫妻がちょうど香港にいたので、遊びに行ったのだ。うまいものをしこたま喰って、新作の詩を書いてと考えていたのだが、詩は一文字も書かず、ついにはマカオまでフェリーで行って、人生初めてのギャンブル「大小」に4時間くらいのめり込んだ。結局負けもせず、儲かりもせず、ポルトガル植民地の街並みを観光しただけだった。

 2月の終りヒカシューは、房総の海が見えて合宿できるスタジオを借りて、作品づくりをしようとしたのだが、行ってみると海の前はごみ捨て場、ベッドルームはカビ臭く、劣悪な施設だったので、早々に退散。湯河原に場所を移して、作品づくりをはじめた。

 そして4月、いくつかの作品は完成できぬままにパリに出発することになった。なぜパリかというと、どう考えたのか現地集合だったからだ。ベルリンのハンザトン・スタジオの5月6日からの録音に間に合うように来ることが条件なので、ヒカシューはバラバラの行動。

 ぼくと野本はパリに2週間も前に着いたのである。移動遊園地に行ったり、ベトナム料理食べたりしながら、夜はホテルで詩を書いた。その後、ぼくはスイス経由、野本はオランダ経由でベルリンに到着。三田超人とつの犬は、日本からぎりぎりの便で到着予定だったが、坂出とともに到着予定日のシェネフィルド空港に行ったが超人は現れず、次の日に地図を頼りに到着した。聞けばモスクワのシェレメチボ空港に一泊させられたとのこと。「テレックスを打ったけど届かなかった?」と言っていた。「ファックスじゃなくてテレックスってあり得ないだろ」という返事には耳を貸してもらえなかった。いまならEMAILがあるから楽だけど、当時のシェネフィルド空港など英語表記もなかったので、ドイツ語かロシア語を知らなければ何もわからないような空港だった。

「ところでつの犬は?」

「乗り遅れた」

「・・・・・」

 ベルリンのハンザトン・スタジオは、デビッド・ボウイのベルリン3部作で有名なところ。壁のすぐ近く(20メートル)、ポツダマープラッツに面していて、宿泊設備を備えている。寝床からスタジオまですぐそこという素晴らしい環境。疲れている時は部屋で寝ていられる。

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