ヒカシューの『1978』発売

 1996年、ヒカシューはメンバーに新井田耕造 (ds)、吉森信(key)を加えて新曲づくりに燃えていた。デビュー前の音源をまとめた『1978』、セルフカバーアルバム『かわってる』を制作し、次に新作を出す予定だった。東芝EMIのディレクター加茂啓太郎氏が、新作を出すためにヒカシューを再認識してもらう必要があるというので、彼が選んだリミキサーによるリミックス・アルバム『レトロアクティブ』も企画された。
 リミックスに横から口をだすのは野暮と考えて何も言わなかったが、『レトロアクティブ』の出来は玉石混交。プロデュースが音楽の方向をコントロールせず、「お任せ」になっていたので、リミキサーのヒカシュー理解度が試された。
 一方『1978』は、最初のデモテープの音源であり、この音がきっかけでヒカシューがデビューできたのだから、こちらの思い入れが違う。何か特別な盤にしようとしていたのだと思う。ちょうど、この頃CD extraというスタイルが始まっていた。CDでありながらコンピューターのデータが入っていて面白そうだ。よしそれをやろうと思い、その夏の8月の半ば、一週間ほどかけて夢中で作り上げた。この一連の仕事は、担当にはまったく想像できなかったようで、242ページ分のテキストデータと179ページの写真データを作り上げたが、経費は用意されてなく雑費1万円を計上した記録が残っている。
 そんな中で完成できたのは、電子ブック出版の草分けボイジャーの萩野正昭氏の無償協力があってのことだった。ボイジャーの祝田久氏、野口英司氏には特に尽力していただいた。それは当時画期的な縦書きのエキスパンドブックで、しかもCD linkという日本ではじめての音とテキストのリンク。メロトロンの鍵盤写真をクリックすると「イヤヨ」と出たり、歌詞の一行をクリックするとそこから再生できるように作った。最終日はほぼ徹夜で、仕上げたのを覚えている。日本初のCD extraといっても過言はなかったわけで、本当にすごいものができたと思ったが、気付いた人があまりいなかったようで、ほとんど評価されなかった。まだまだコンピューターは一般には難しいものだったのだ。またCD extraのフォーマットを作成できるのが、ソニーのスタジオだけだったので、東芝EMIに理解がなかったのも無理はなかった。
 『1978』は、まさに1978年、練馬の一軒家で、4chオープンリールで録音した作品である。この頃、家賃5万円の部屋を高校時代の友人たちと4人でシェアしていた。2階には別の借り主がいたのだが、そのうち出て行き、そこに海琳正道(現・三田超人)が越してきて、さらに隣に井上誠の友だちが越してきてと、まるごと占領したようなかたちで暮らしていた。
 曲の多くは、1978年の夏に行った演劇パフォーマンス『幼虫の危機』のために作られたもので、それをもとに当時フリージャズの店だった吉祥寺の羅宇屋 でライブを行い、秋にデモテープ作りに入った時のものだ。部屋にはアップライトピアノがあり、ぼくはWurlitzerのエレピやトランペットを持っていた。ベースだけがなくて山下康がバイオリン型ベースを300円でゆずってくれて、それを弾いた。かなり弾きにくかった。
 井上はメロトロンを3台持っていて、テープを自作していたのが、他のバンドにない強烈な個性になっていた。コーラスもメロトロン社の純正ではなく、ぼくの声をひとつひとつ録音したオリジナルだった。
 録音したデモテープをブライアン・イーノに送ったところ、ロンドンのイーノのファンクラブの小冊子イーノベーションにヒカシューの紹介が1ページ載ったのには驚いた。ロックマガジンの阿木譲は彼のヴァニティレーベルから出さないかと言ってくれた。渋谷のカフェ、ナイロン100パーセントでは中村直也がデモテープをよく流してくれていた。
FMで番組を持っていたDJの森直也さんが練馬の家に突然やってきて、練習を見学。おみやげに角度によって変化するDEVOのバッジをくれたのを覚えている。いよいよ目まぐるしい日々が始まった。この時、なにかが動きはじめていたのだろう。ライブの方も次々と声がかかり、東京ロッカーズやナイロン100パーセント周辺のバンドたちと頻繁にライブをするようになった。
 そしてその年の12月。近田春夫にデモテープを渡すために、深夜ニッポン放送に向かった。近田さんはクラフトワークをかけたりしていて理解があるだろうと思ったのと、偶然にも友だち(堀上裕子)が近田さんのマネージャーをやっていたからだ。
 その時、立花ハジメと島武実さんに会ったのも今思うと不思議な縁だ。そして、次の日、近田さんから「プロデュースさせて欲しい」と電話が来た。


2010年2月12日 巻上公一

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現在のOSに対応していないため、 今回このエキストラの部分の収録は残念ながらあきらめたが、新しい形で提供できないかボイジャーに話を持ちかけている。そのかわり、今回はボーナストラックを2曲入れた。「プヨプヨ」のカラオケver.と「20世紀の終りに」のCR78ver.である。この2曲は、リズムボックスがエーストーンからローランドCR78に変わり、東芝EMIのデビュー盤にアレンジが近づきつつあるのがわかる。

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羅宇屋はその直後、前期ヒカシューのメンバーだった若林忠宏がオーナーになり、日本初の民族音楽ライブハウスになった。



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