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プラスチックスとヒカシューの邂逅

「ぼくたちドラムがいなくてリズムボックスを使ってるんですよ」
「えっ! そうなの?」
1978年12月12日 深夜のニッポン放送のスタジオにぼくは来ていた。
友だちの堀上が、近田春夫のマネージャーをしていた縁で、「ヒカシューのデモテープを聴いてもらえるだろうか」と相談した。当時オールナイトニッポンの第2部パーソナリティをしていた近田さんに「直接渡した方がいいよ」と言われ、会いに来たところだった。たまたまそこに立花ハジメちゃんがいて、冒頭の会話になったという訳だ。人生の中で、運命の日があるとしたら、紛れもなくその決定的な方向を示す特別な日であった。
 これを機会に、お互いクラフトワークに影響を受けたプラスチックスとヒカシューの交流がはじまった。これは幸運なことだった。渋谷の屋根裏やナイロン100パーセント、原宿のペーター佐藤さん(ぼくにとっては東京キッドブラザースの先輩でもある)のスタジオ近くで、トシちゃんやチカちゃんたちとも頻繁に交流することになった。
 気がついてみると、彼らとはもともと何度となく会っていて、顔を知っていた。ブライアン・フェリーなどロンドンあたりからミュージシャンが来日した時のパーティーとかで、必ず見る顔なのである。おそらく気にしている音楽が同じだったのだと思う。そんな光景が記憶の縁にまだ残っていて、活気に満ちた原宿セントラルアパートがあった頃などが懐かしくてしょうがない。
 ハジメちゃんは、グラフィックデザイナーでもあり、B-52’sやトーキング・ヘッズ初来日のパンフレットを制作していたので、プラスチックスの交友関係の切り込み具合は他のバンドと一線を画していて、デビッド・バーンなども彼らの友だちだった。そこにぼくも混ぜてもらい、一緒に原宿の中華料理に行ったりしたことも忘れられない。それは1979年の夏だったから、ヒカシューもプラスチックスもレコードデビュー前夜だった。
 ぼくはプラスチックスのために「何故かバーニング」という歌を作ったり、相当深く交流していたことを、あらためて感じる。1980年になって、レコードデビュー後、テクノポップ御三家なる呼び方までされてしまうのだから、その後、プラスチックスは海外での活動にシフトしていき、成果をあげて解散。ヒカシューはより地下活動にシフトしていったので、会う機会も少なくなった。当時出演した東京12チャンネルの番組ステレオ音楽館でのインタビューで、プラスチックスは解散をほのめかし、ヒカシューはずっとやっていくと言葉にした。まさに言葉はその通りになった。
 そして時を経て、2013年12月25日にはヒカシューの35周年で「テクノポップ・クリスマス」と題して、代官山UNITでヒカシューとプラスチックスと公演できたことは、貴重な企画だったと感懐深い。
 プラスチックスと遊んだ時代は、ぼくのかけがえのない青春時代だったので、いまもこうやって思い出して懐かしんでしまう。また懐かしむほどに発見がある。

プラスチックス40周年を祝って
巻上公一 2016年3月19日
 

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