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2024年、春分の日

千年に一度の珍しい巡り合わせという今年の春分の日。この特別な日に、尊敬するジョアンナ・メイシーさんの編み出した「つながりを取り戻すワーク」を開催することになっていたものの、なんとコロナに感染し、場に立ち会うことすらできなくなってしまいました。治療薬によって一時は40度まで上がった熱もすっかりおさまり、身体は随分楽になったというのに、何しろ感染症ということで外出ができない。とても楽しみにしていた場であり、申し訳なさと同時に、とても残念に思っています。「いま・この瞬間」を共にしたかったという願いと、叶わなかったことへの嘆き。

さて。薬によって熱の下がり始めた昨晩に見た夢が印象的だったので、記してみようと思います。誰かが書いていたのですが、書くことは「書く瞑想」でもあり、こころを落ち着かせるのに役に立つかも、と思って。

それは、エネラルド色した美しい海を臨む、リトリートセンターのような場所でした。山の中にある建物に複数人で集い、合宿のようなものをしているのです。ふと外をみると、その海でサーフィンをしている人たちがいる。ああ、いいなあ、気持ちいいだろうなあ、、、と眺めているうちに、気づくとその波はとてつもなく大きくなって、建物の入り口を塞がなくては波が中にまで入り込んでしまうではないかという勢いです。でも、そんな状況においても、波乗りしている人は慌てる様子もなく、というか周りの誰もがそれを怖がってもいないようで、ただ、その現象だけがそこにある・・・。これはいったいどうしたことだろう??一体何が起きているのだろう??というところで、目が覚める・・・。

こういう設定の夢を、私は時折見るのですが、これは一体何を物語っているのでしょうか・・・。

その「よくあるタイプの夢」のなかで、一つ際立って違ったところがありました。それは、その夢の中で、私がなぜだかとてもハイテンションになって、誰かに対して怒りの声を上げていた、ということです(相手は子どもだったと思います)。

「そんなことされたら誰だって怒るでしょう!」というように、キレて怒鳴りつけていたのです。今思うと、その怒鳴っていた私は、大人の私だったのだろうか・・・子どもの私だったのかもしれません。怒鳴りつけることに、なんの躊躇いもなかったのだから。と、同時に、そんな怒っている自分を冷静にみているもう一人の自分がいました。「ああ、なんか大きな声で怒っているな」というように。映像をみているような感覚。それが、同時進行に起こっているのです。「怒ってる」のと「怒ってるのをみてる自分」と。

その夢の中で、私がどなった相手(男の子)が、私に対して、私がいったのと全く真逆な捉え方を言葉にしました。私はそれをきいて、「そんな、180度違う考えなんてあるのか?」と一瞬ためらいましたが、少したって「ああ、そんな考えもあるかもしれないなあ」と気づき、納得をして、では先ほどまで私はなんであんなにも自信たっぷりに怒り捲し立てていたのだろう?と思いました。しかもそれは「私が頭にきた」というより、「私は、あなたのあの人に対する振る舞いに腹をたてている」というような怒りで、私はその怒りを言葉にすることに、何かしらの正義感を感じていたのです。

・・・と、ここまで書いてふと気づいたのですが、あの夢の中で私は、普段意識していること(感情が動くのは、その人本人の内面に何かしら大切なものがあるから、というNVCの考え)を、すっかり忘れていたように思います。でも、今思っても、どうだろう・・・。あの時私が抱えた感情は「そんなことされたら怒るでしょう!」っていう表現以外に、どう表明することができたのでしょうか?「私は・・(ニーズ)を大切に思ってる。それで、・・(観察)をみると、それが大事にされないと私には思えて、私は頭にきた」というような「翻訳」は確かにできるけれど、それは「美しさ」に欠けるように思うのです。「取り繕った弁明」のように聞こえる言葉の並びだからでしょうか。ある種の文法を意識するが故に、こころの自然な流れを表現することに必要な野生性のようなものが削ぎ落とされてしまうからでしょうか。ああ・・なんだか、そんな気がしています。

言葉は生き物であり、意思であり。宿るものであり、宿すものでもある。

言葉の持つ神秘さ、美しさを損なうことなく、言葉と豊かな関係を紡いでゆくことができたなら。それが、私の根本的な願いなのかもしれません。