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柔らかな夜風に吹かれて

京都在住の友達が、桜の写真をSNSにあげている。鴨川沿い、そして京都御所。本満寺の枝垂れ桜も少しずつ咲き始めたらしい。

今から3年ほど前、コロナ禍で人の少ない京都に、一月ほど過ごしたことがあった。その年は一週間ほど前には桜が見頃を迎えていたということを、時に疎ましく思うデジタルデバイスの通知機能が伝えてくれたのは、つい数日前のことだ。日記よ、君はいつの間にそんなところに住まうようになったのかい?

私的情報の貯蔵庫。これが意味することは、なんなのだろうか。知らないうちに変化する、情報と自分との距離感。時間と記憶との相関関係。習慣に、生活に、暮らしに、人生に変化をもたらす出来事は、日々の中にさっとあらわれ、あっという間に溶け込んでいく。その変化の影響から自由になる権利というのを、私たちは持っているのだろうか?ある人にとって選択肢が豊かになるということは、ある人にとって、これまでの方法をとりやめることの強制措置でもあったりする。「時代の変化」という言葉を私たちはさりげなく使うが、その変化が誰のどのような行動により牽引されているのかについては、もう少し注意深くあってもよいのではなかろうか。

などということを考えないですむために「スピード」や「効率性」が重視される社会というのはうまく機能していると思うけれど、これ、誰が望んだことなのだろうね。

桜の姿に、人は儚さを見て、美しさを感じとる。何事にもはじまりと終わりがあり、繰り返されるいのちの循環がある。儚いもの、変わりゆくもの、もろくて強い存在。そういうものに触れていることが、私に、時と暮らしのちょうどよいゆとりと緊張関係を思い起こさせてくれる気がして、どこか安堵するのだ。不思議なことだけれど。

外に出よう。風を感じよう。日差しを。芽吹く木々を。そうしてそのやわらかな感性を曇らせることなくものごとに向き合うことができたとき、社会はしずかに、確かに、生命の息吹を含んだものとなることだろう。

時を愛おしむ。

呼吸をしよう。呼吸を、重ねよう。