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ToftとTotto

新版『ムーミン谷の十一月』に登場する
ホムサ・トフトは、ムーミン家の屋根裏部屋で
見つけた分厚い本を、苦労しながら読み進める。

ホムサは、その本を読んでいけば、ムーミン一家が今どこにいるのか、なぜ行ってしまったのか、わかるような気がしていたのです。でも、本に書いてあるのは、まるっきりべつの話でした。ふしぎな動物やら、暗い景色のことはありましたが、ホムサの知っている名まえのものは、一つも出てきませんでした。(新版『ムーミン谷の十一月』8章)

そして、本の中の「ちびちび虫」は次第に
大きくなって様相も変化し
ついにはホムサの前に姿を現す。

大きくなり過ぎたちびちび虫にホムサは
必死に語りかけるのだが、旧版では
下記の訳になっている。
「ちっとも得にならないんだよ。」
と、ホムサはいいました。
「ぼくたちは、かみつかれてはこまるんだ。
あいつらにかみつくなんてことは、
いつまでたっても、できっこないんだ。
ぼくのいうことを、信じてくれよね。」

―ううむ、ちょっとよくわからない……。
ここの原文はというと、下記のとおり。

Det lönar sig inte, sa homsan.
Vi kan inte bitas.
Vi kommer aldrig att kunna bita dem.
Tro nu på vad jag säger.

Det lönar sig inte,
「だめだよ」「やめなよ」
「むだなんだよ」なのだが問題は
Vi kan inte bitas.というフレーズ。

bitasのように動詞(この場合はbita)の語尾に
sが付く形の単語は受動や相互の意味合いになる。
bitaは英語でいうところのbiteなので
「噛まれる」もアリだが、kan inte(できない)
→「噛まれることはできない」だと何だか変。
ということは、「噛みつき合う」の方だろうし、
kan inteは「できない」というより「あり得ない」
の方のニュアンスだろう。
つまり、「噛みつき合ってるなんてあり得ない」
→「いがみ合ってる場合じゃない」ということ?

このあたりについてHenrikaに訊いてみた。

ホムサは噛みついてやりたいけど、
自分が弱っちくて、相手に対してそんなことが
できる力もないことをわかってる。
ムーミン作品の中でも凄くシリアスで
無力感を感じる台詞よね。

ん?ということは、
「お互いいがみ合ってる場合じゃない」
という意味ではないのね?あくまでホムサと
ちびちび虫が相手に噛みつけないという意味?

相手に噛みつけるものなら噛みついてやりたいよ、っていう諦めと悲しみね。
噛みつくことがいけないからしない、ではなくて。
1950~60年代におけるホモセクシュアルの
しんどい状況を暗に描かれていると思う。
蔑すまれ、酷い扱いを受けても仕返しなんて
できる筈もないという…。


なるほど、深い……。
噛みついてくる相手に噛みついてやりたい。
やるならやってみろ、噛みつき合いだ!
それができたらいいのに、できない。
となると、bitasは「相手が噛みついてきても
噛みつくなんて無理」
bita dem(彼等に噛みつく)は
物理的に噛みつくだけでなく、
抵抗・反撃の意を伝える言葉がいいだろう。
諸々考えて、新版ではこのように。

「だめだよ」
と、ホムサはいいました。
「ぼくたち、かみつくなんて無理だよ。あいつらに歯向かうなんてことは、
いつまでたってもできっこないんだ。ぼくのいうことを、信じてくれよ」

新版『ムーミン谷の十一月』18章


トーベの分身とよく評されるホムサ・トフトの
トフト(Toft)は単語の意味としては
「ボートの腰かけ板」だが、
トーベの幼少時の愛称はTotto(トット)で、
このToftとTottoは発音が凄く似ている。
黒柳徹子さんの愛称、トットちゃんと同じ発音。
ちなみに、トーベも黒柳徹子さんも誕生日が同じ
8月9日生まれ。

1970年まで、フィンランドにおいて
同性愛は犯罪とされていた。
蔑すまれ、酷い扱いを受けても、仕返しなんて
できる筈もない当時の状況と思いを
ホムサ・トフトの言葉に込めたのだろう。

15章でホムサ・トフトがスナフキンのテントを訪れた際に言われた
「なんでも、大きくしすぎちゃ、だめだぜ」も意味深なのだ(イラストは17章のもの)




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