全ての歌詞に意味はあるべきか?

お久しぶりのまきなLv39です。
ボカコレ2021春にまた曲を投稿して、しばらく燃え尽きていたところに何やらTwitterのTLが騒がしくなっていたので…ぼくも少しペラペラ喋ろうかなと思い立ちまして。久々に筆を執ったところでございます。

で、いきなり掲題の質問についての自分の回答になりますが、
「なくてもよい」
です。なぜならば、
「歌詞は想いを表現するための手段だが、曲を構成する部品でもある」
からです。歌詞をどのように扱うかは作曲者次第です。ついでに言うならば、ボカロ界隈は作曲者のいわば「実験場」的なところもありますので、部品を扱う際の自由度が高いだけだと認識しています。

一般的な有名どころですと、「もののけ姫」は2番の歌詞がUh~とかAh~で構成されてますね。しかし2番を敢えてそういう構成にすることで、曲を聴かせる、曲自体への没入感を増すといった働きになっていると思います。

ボカロ界隈でも、「Nya」だけで構成されている有名曲がありましたね。

(カラオケにも入ってるのでみんなも歌ってみよう!飛ぶぞ…意識が…!)

極論を言うならば、全く意味のない言葉の羅列だけでも歌詞は完成します。あとは聴き手がどう判断するか、それだけではないでしょうか。
というわけで本日の話はここまで!…と区切ると「そうですね!」で終わってしまいますので、ここから本題に入っていきたいと思います。


1. 曲の持つ情報量について

Pの皆様方は意識的に、または無意識のうちに操作している項目かと思いますが、改めて、いったんこちらについてお話していきます。

良い曲はいつも情報量が多い
http://atagosounds.com/2017/05/11/information_amount/

音作りにこだわるとか、同じメロでも展開を変えてみるとか、メロそのものを少し変化させてみるとか、逆に所々で音を減らしてみるとか。聴き手を飽きさせない工夫をされているかと思います。
こういった対応により曲の持つ情報量が上がっていき、聴き手を楽しませるものとなります。
さてここでいきなり大御所が登場しますが、

モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」です。
同じパターンの主旋律が結構流れますが、それぞれ展開が変わっていたり、音階が変わっていたり、主旋律自体も少し変化があったりと、モーツァルトの才能をこれでもかと詰め込んだ名曲ですね。変化をつけることで情報量の向上に寄与しています。

あとはボカロ曲からも1つ紹介。

1つ1つの音を活かす作りだったり、展開の作り込みだったり、音の削り方だったりと随所に工夫がされており、ボカロ曲ではものすごく大好きな曲の1つです。ぼくもこういう音楽が作れるようになりたいですね…。


2. 歌詞の持つ情報量について

冒頭で「歌詞は想いを表現するための手段だが、曲を構成する部品でもある」と述べましたが、当然ながら歌詞にも情報量が存在します。

平均情報量による歌詞生成モデルの評価手法
https://www.anlp.jp/proceedings/annual_meeting/2019/pdf_dir/P6-14.pdf

こちらは歌詞の情報量の変化などを推測して、歌詞生成モデルを評価しようという試みですね。行ごとの情報量の多さ、歌詞の繰り返しパターンの頻度、繰り返しのタイミングで総合的な情報量を測っているようです。

ボカロ界隈では、ここら辺の情報量に対するアプローチが昔から多いなと感じています。
例えば、行ごとの情報量の多さで言うならば、以下の曲などは良く当てはまるのではないでしょうか。


特に消失などは初見で全ての歌詞をなぞって理解できるかというと、恐らく難しいですね。(ボカロ曲に慣れてしまった方はあまりそう感じないかもしれないですが…)

一方で、歌詞の繰り返しと言えばやはりこれでしょう。

サビのタイトルを繰り返すところはあまりにも有名。盛り上がる部分で歌詞の情報量を一気に削り、聴きやすくすることで引き込む作りは見事だと思います。

また、昨今では繰り返しのパターンも多様になってきていますね。

歌詞の随所に色々なパターンの繰り返しが登場しています。サビの「アイアイアイ」「無い無い」「痛い痛い」だったり、「な な な な なんですの」と文頭の文字だけを繰り返したり、「シークレット」という言葉を何回も重ねたりなど。繰り返しをうまく使い分けることで、ボカロ曲ではどうしても多くなりがちな歌詞の情報量をうまい具合に調整しているなと感じます。


3. 伴奏と歌詞の情報量の関係について

歌詞自体も情報量を持っている都合上、曲を作るうえで伴奏と歌詞を合わせた情報量というのは非常に大事な要素になってくると思っています。
情報量からアプローチしている記事ってあまり見かけないのですが、いい記事がありましたので紹介。

【コレができれば一人前】作詞のやり方・コツ 上級者編
https://sakky.tokyo/post-577/

伴奏に合わせて歌詞の情報量を変化させるというのは、なるほどなと思いました。先ほどの例で行くと、みくみくもボッカデラベリタもサビで歌詞の情報量が下がっています。
みくみくだと「みくみくにしてあげる~(もしくはしてやんよ~)」の繰り返しなのでサビということが分かりやすく、またボッカデラベリタも「アイアイアイ」と言葉を繰り返すことで、サビ冒頭の盛り上がる部分をテンポよく聴かせることに貢献しているように感じます。

ここでまたボカロとは離れますが、この情報量の関係をうまく使っている曲を紹介。

髭男の代表作、Pretenderです。

まず1番のAメロに入るところで、伴奏が一気に引っ込みます。伴奏の情報量が下がることで歌詞に集中しやすくしてますね。
次にBメロの「もっと」。このフレーズの繰り返しを使うことで、Bメロの伴奏が盛り上がりつつも、全体として聴かせやすいつくりを維持しています。
「あ、Bメロに入ったな」とすぐわかります。
そして極めつけが、サビ入りの伴奏が一気に消えたところに入る「グッバイ」。これがとても美しい。敢えて全体の情報量を削りまくったところに、印象的な一言を放り込む。これで聴き手に「グッバイ」という言葉を印象付けられ、サビの期待感をとても高められます。
サビの歌詞もしっかりと作り込まれており、言葉の終わりに「い」を多用すしたり、「いや」を繰り返したり等で歌詞の情報量を抑えることで、サビで盛り上がる伴奏を考慮しつつ聴かせやすくしているなと感じます。
(個人的主観ですが、「い」って「あ」や「お」より歯切れがよくてスッと入ってくる感があります。主張したいときは「あ」や「お」の方がいいですが。Pretenderだとサビの最後で「君は綺麗だ」等で「あ」で揃えてますし、これも強く印象付けられるところですね。)

2番も基本的な展開は同じですが、出てくる音を変えたりすることで1番との違いを表してますね。2番のAメロは1番ほど伴奏が引っ込みません。「グッバイ」の時の伴奏も1番ほど引っ込まず、ドラムが鳴っていることで連続感を出してますね。伴奏を引っ込めるのは印象的ではありましたが、同じことを2回繰り返すのはさすがに重いのでここで切り替えてきた髭男のセンスは流石だなと。2番サビが短めなのもあるんでしょう。

ここまでの流れで「グッバイ」というワードが十分に印象付けられたため、間奏後に入る「グッバイ」で、ラスサビに来たというのがすぐわかります。

場面に応じて伴奏や歌詞の情報量をコントロールすることで、聴かせたいところをしっかり聴かせている凄い曲だなと思ってます。髭男パネェっす。


4. ではどれくらいの情報量が適切なのか?

先ほどの記事では「歌詞の情報量+伴奏の情報量=100」という記載がありましたが、別にそういうのに拘らなくてもいいんじゃないかなあというのがぼくの見解です。
曲を作るうえで確かに上記の式は大事だと思いますが、歌詞の情報量を10000くらいにして聴き手の脳内をショートさせるような曲でもいいですし、逆に0にして頭空っぽでも聴けるような曲を作るのも自由ですね。そういうのがどんどんできるのもボカロ界隈だと思いますし。ボカロは何でも歌ってくれますよゲヘヘ

冒頭のもののけ姫の2番のように歌詞の情報量がほぼ0でも曲としては成り立ちますし、初音ミクの消失のように情報を詰め込んでも聴き手に受け入れられる曲になります。Nyanyanyanyanyanyanya!のように歌詞の内容が情報として全く意味をなさなくても問題ないですね。
またボカロから離れますが、以下の曲もハチャメチャな歌詞ですが人気の曲であることは間違いないでしょう。

この曲の歌詞を深く考察するか?といえばぼくはしないですし、「こういうものなんだ」と受け止めて楽しむことにしてます。むしろ歌詞のノリとか語感とかテンポを楽しみます。「アニキloverサイン」とか何言ってるんだろうって感じですけど面白いのでOKだと思います。

この記事の3ページ目とか凄いですね。「ドングリ!」とかいきなり入れられても考察しようがないですもん(笑
ノリで歌詞を作っちゃうのも面白いですよね。

そしてまたボカロの話に戻りますが、柊キライさんは語感をだいぶ意識した歌詞作りをされてますね。

歌詞の語感の良さ、つまり歌った時の「響き」を曲の部品として利用している印象を受けます。歌詞も曲を表現するための要素の1つとして扱うことでノリのいいグルーヴ感を構成できた結果として、聴き手に受け入れられているのもある意味当然の帰結なのかなと思います。

また、ワールドワイドな話になりますが、日本語は他の言語と比べて情報量が少なかったりします。

文章で書く分には漢字がありますのであまり気にはなりませんが、音声情報として伝える場合の差は歴然です。つまり日本語を主な言語とする我々日本人から見ると、洋楽は基本的に歌詞の情報量が多いことになります。

こういった諸々のことを考えると、作り手側が考える情報量も、聴き手側が考える情報量も人それぞれだなと。なので、気にしすぎなくてもいいんじゃないかなと思いますね…。


5. 情報量の差が影響すること

作り手側がこれは「情報量100の曲です!」と出しても、聴き手によっては120に聴こえるかもしれないし、80かもしれません。聴き手のバックグラウンドによって変わってくると思います。
演歌に慣れたご年配の方にとっては最近の曲は取っつきにくいでしょうし、逆にボカロ曲に慣れている若者はグループサウンズに取っつきにくいかもしれません。
では聴き手にとって、適切な情報量のバンドから外れた曲は駄作なのでしょうか。と言えばそれも違うのではないでしょうか。単に趣味に合わなかっただけなのでしょう。
自分に合わない情報量の曲があった場合、「そういうのもあるんだー」くらいに流した方が楽かもしれませんね。何せ音楽の可能性は無限大ですから。


6. まとめ

というわけでボカロ曲を中心として色々な曲を情報量の観点から見てきましたが、歌詞に意味があってもなくても音楽として成り立つ以上、その辺りはあまり気にしなくてもいいんじゃない?というお話でした。なにせ歌詞どころか音が無くても曲だと言い張れば曲ですからね…音楽は自由だ。


7. 余談

ボカロ界隈の中にはこの流れの中で歌詞が歌詞としての意味を喪失し、曲の構成音としての意味しかなさなくなることを恐れる向きもありますが、ぼくとしては別に恐れなくてもいいんじゃないかなと思います。

↑とても良い記事でしたので、こちらでも紹介。

上記の記事と、ぼくの今までの記述を踏まえて「なぜなのか」に入っていきますと、
・単にムーブメントの1つである(数年もすれば変わる)
・歌詞が曲の要素として使われることが一般化しただけ(あくまで曲の表現手法のひとつである)
・そもそもボカロ界隈以外にもそういう曲は普通にある

こんな感じで意味不明な歌詞って結構いろんなところに転がってますしね。ボカロ界隈も数年もすればまた流れが変わりますって。ちなみにぼくはミツバチ大好きなので、昔に友人とミツバチ縛りのカラオケをしたことがあります。もちろんミツバチ以外は歌ってはいけない。それを5時間くらい。あほか。

むろんボカロ界隈は裾野が非常に広いので、そういう風に画一化されることにはならないだろうなとも思ってます(多少の流行り廃れはあるにしろ)。

じんさんならではだと思いますが、こういったストレートな曲も受け入れられてますし。

言葉遊びを抑え気味にしても、良い曲は良いですね。

どちらもプロセカ発なわけですが、プロセカ曲は数多の異なる「セカイ」を表現するために曲の種類にも多様性があるなと感じています。
プロセカは人気コンテンツでもありますので、次のボカロ曲のウェーブはこの辺りから始まるかもしれませんね。

上で「歌詞が曲の要素として使われることが一般化しただけ(あくまで曲の表現手法のひとつである)」と書きましたが、ノリのいい曲が流行っている現状では歌詞もそれに迎合したほうがウケは良くなるでしょう。ただ、全く別のタイプの曲が流行りだしたときには、歌詞もその曲に合わせて変化していくはずです。

というわけで、そこまで気にしないで自由にいけばいいんじゃなーいってことで。それではまた。

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