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良いリズムとはどこにあるのか #002

以下駄文が連続する。要約は以下。

精神性を受け継ぐ時代から、運動メソッドを受け継いで記録を伸ばし個人が君臨ゲームに参戦している時代、そんな変遷が現代のいろいろなものに見えるなぁ、という話。

本来これ一文で済む。これは最後にも書いているけれど、夢から覚めてすぐに書き留めた文章が消えてしまったために、断片を思い出すべく無理やり書いたつぎはぎの散歩のようなものになってしまった。

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発音から解釈までのタイムラグを人間はどう処理しているのかというのが、前回の内容のつもりだったのだけれど。

そしてこれは、演奏するにしろ、学ぶにしろ、教えるにしろ、演奏を引き出すということにおいて、特にドラムや音楽において、どう解釈することが一番送り手、受け手の齟齬が少なくなるのか、そしてその範囲というものがあるのか、いやむしろ規定などし得るものかという視点で言っているだけで、音楽そのものの定義や、解釈の固定というものではない。

そもそもなぜこんなことを書くかと言えば、30年ほど前、サンプラーの波形解析ができるソフトというものが登場して。いろんなサンプルを合成してみたり、ADSRをいじったりして遊んでいた。電子ドラムのパッドを叩いてピアノの音が出たときに、ものすごい違和感があったりもしたが、それよりもいろんな楽器の音からアタック部分だけを取り出して他のディケイを繋げてみたり。で、まず波形の冒頭だけちょっと聞いてみても「プッ」とか「クッ」みたいな音で、それがピアノなのかスネアなのかシンバルなのか、案外全然わからんもんだなと。そしてどこまで行くと「その音」とわかるかと言えば、これはその音にもよるけれど、たとえばタムとかフロアタム、シンバルみたいなある程度のディケイがあってこそ良い音と当時感じていたものについては、言ってみれば喉元を通り過ぎてから味が浮かび上がって来る、みたいな印象ではあった。ドラムというのは、シーケンサーやドラムマシンでランダムに楽器を鳴らしても、案外フレーズっぽく聞こえるもので、「聞いている」「叩いている」「合わせている」ということの中にあるメカニズムには不可思議さもあるなと感じていた。自分が振り下ろしたスティックで、タイコから音が出てきて、それがその音だとわかる頃には、ともすれば16分音符や8分音符ひとつぶんくらいは時間が経っているのでは、と。

人間の視覚というものも、デジカメに例えればそれほどの画素数は無いと言われる。円は円に見えていないのだが、脳が円として補正して意識に投影しているというやつだ。このような補正は人間の脳にとってはごく自然なことのようで、False Memory Syndromeなんてものもあるくらいだから、潜在意識の中で要求された書き換えが行われ、意識はすっかりそれを信じ込む、なんてことがあっても何も不思議ではない。現に、自分の記憶の不確かさなんてものは誰でも実感するところであろう。

スネアドラムの発音の瞬間と、空気振動を介して鼓膜の振動が脳内解釈されて「タン!」という音を判別するとき、ヒットした瞬間はスティックとヘッドがぶつかった衝撃音、その後にヘッドの振動、太鼓内の空気によって裏ヘッドが押され、密着したスナッピーを撫で叩き、胴によって共鳴拡散されていくというようなことだとすれば、やはり実際そこには時間差があって、最初は手を打ったりする中で、その時間差を予想して「リズムを合わせる」ということが習得されて行くのであろうとは思う。

ボールを投げるという動作をしてみれば、まず他者が投げている様子を観察して、大体の行為の外郭をつかむ。ボールを持って、真似をする形で投げる。このとき、図形や動作の観察能力が他のことで身についている人や、自分の感覚と、それを鏡で見たときの印象の差異などを体験している人、筋力のある人などは、真似自体の精度が上がる確率は高いのであろう。一度で概ねうまくいく人、とんでもないところに投げてしまう人など様々ではあろう。予め身についていた能力を、素地とか、センスとか、ともすれば才能と呼ぶならば、それらは先天的なものと後天的なもの〜常識とか基礎体力〜のようなものかもしれない。

良いリズムとはどこにあるのか。という視点で言えば、実のところ、こうした先天にしろ後天にしろ、能力というものがその良い演奏を作り出すのか、その個人の前提の認識が演奏の形になるだけなのか、それは教えながら他者を観察する期間が長くなればなるほど、不明点が増えてくる。説明しきれないことは山程あるから。

果たして、練習やトレーニングという、一般的な習得の過程によってうまくなるのか、そもそもうまい人は最初からうまいのか。演奏が、前述の真似する、という意味で概ね満たされるのであれば、それはやはり習得過程によってもたらされると判断して良いと思うが、「良いリズム」ということになると、それはまた別である。個人的には、そういったことを表すのに「練習」という言葉を使うのが好きではない。練習自体は悪くなく、練習することが音楽に置き換えられて表現されることが、一部の感じ方の中で問題があるのだと思う。私は練習も楽しいし、本番も楽しい。むしろ、誰だったかミュージシャンが言っていた、いつも演奏してるんだよ、それがステージの上か部屋なのか、スティックを持って楽器に向かっているか、パッドに向かっているか、みたいな言い方の方がロマンがあって好きではある。無論一部の職業的な領域での話では当然となる場面もあるだろうけれど、練習過程の手作りのビスケットを友人にあげることが何か悪いのかと言えば、それは何も悪くない。金を取るのは別とか、まぁそれもあるけれど、人類全体が壮大な実験と練習の過程ではある。あぁ、実験って言えばいいのか。今日もドラムの実験をしよう!あぁこれからそうやって言おうかな。

そもそも音楽自体が善なのかもわからない。ここで大事なのは、素晴らしいと感じる芸術があるということだ。これは商業的な商品とはあくまで区別したいが、そういったものの中に芸術と呼べるものも存在しうるし、芸術でございと標榜しているものの中に、我々の心に愛をもたらしてくれるかもまた疑問ではある。芸術は、金のためではないと言っても、その人の人生の中で作品を作らなければ格好がつかないというノルマを抱えているとも言えよう。芸術は、時として立ち現れるものであって、作為を超えた源泉が、おそらくは時代や風土、生活の積み重ねの中で熟成発酵して産まれてくるのではないか。それは誰の作品ということよりも、イタコのような存在が、それを世に形として表す。それは自然物でも織りなされるし、動植物、生きているものもその役目を追う、という事を考える。現代はそれが貨幣価値に置き換えられるシステムだから、イタコに当選すれば宝くじにあたったようなものかもしれないが、それはそれで人生というものに使命が与えられることで、様々なアーティストの一生というものが存在していて、それはすべてがハッピーエンドとは言えない例も存在はしている。

補正というものに話を戻すと、さきほどのボールを投げるという動作では、何度も失敗を重ねることで、脳はデータを揃えてうまくいく確率を上げていく、というようなことを脳科学的な研究というものを噛み砕いた中で読んだことがある。バッターにしても、ピッチャーから投げられた玉を見てからバットを振ったのでは遅いという。あるいは、人間の脳は、ミスをする瞬間、動作のわずか前に、ミスをしろという信号を自ら出しているとも言う。こうしたことは、約束されたルールがあることで、長い間、人間が変わっても同じ競技の方法論の中で進化を続けることができるという側面があると思う。

テンポが一定の場合、ドラムであれば動作的には繰り返しというものが非常に大きくなる。テンポを一定に保つことが難しいという場合もあるが、それが故に確実と約束されている動作や、奏法も多い。次の音までの時間が約束されているからこそ、次の音への予備動作のアプローチをやりくりして、速くするとか大きく振るとか、そういうことができる。なんの脈絡も無いところで瞬間的に発音しなければならなかったら、アップしてからダウンするなんて暇も無いわけで、しかもダウンしていく距離が長ければ遅れは生じやすい。その状況でダイナミクスやタッチまで意識するとなれば、高さ=音量という方法論では到底太刀打ちできなくなるし、極端に短いストロークで打撃のエネルギーをコントロールするメソッドが必要になるだろう。

拍というのは、約束されたルールとも言えるし、制約や束縛として守らねばならないものというときもある。ルールをむしろ利用するという視点は、音楽や演奏ではなくとも、ある程度ルールの中で動くことに慣れてきたときに、誰もが体験することではなかろうか。反復することによって、手際とか段取りというものが反射的にできるようになってくること。これはある意味動きを洗練させて効率化させるという、ひょっとしたらもう前時代的かもしれない、メソッドのひとつではあると思う。今や社会の中にあふれるインターフェースというものによって、人間は「操作」を覚える。昔であれば、筆や鉛筆の扱い、今ではパソコンのキーボードやスマホのフリック入力など、いちいち目で見なくても打てる人は山程いる。

さて、この、ルールの中で操作をするということが演奏の行為のほとんどを占めてしまえば、人々は「仕事を片付ける」かのように演奏を片付けていく。ある時期から、学生達はドラムの手順やフレーズを「ゲームのようにクリアしていく」感覚であろうと感じたことがある。そしてプロという職業音楽家の中にも、そうした「片付け」感を感じることもある。それは無論プロフェッショナルとしてのドライかつ合理的なシンプルな削ぎ落としもあれば、やっつけという側面が見えるときもある。さてここで感情や意志というものは何によって形成されているか。得点が高いか、ギャラを獲得できるか。それはどんなに愛のあふれる演奏家でも実情もあって当然だが、そもそもその行為の中で、それは他人が再現できるものなのか、如何なることでそれは実現されるのか。学んだり教えて手に入るものなのか、その人がどれだけ音楽や演奏に愛を以って接しているか、その精神性こそが最終的には演奏の上に香りとなって立ち昇り、聴衆を魅了するとなれば、それは個々の愛の話になっていくのかもしれないし、たとえばある同一の宗教心に浸水して個人を捨てれば、その人達は同じ演奏をすることができるかもしれない、などという妄想も湧いてくる。

また、ルールの中で誰が一番になれるか、ルールの中でみんなで遊ぶ、これはスポーツやゲームのような楽しいものではあるが、これは芸術なのかといえばそれはちょっとわからない。今のところ判断材料が不足しているか、私の目が節穴か、この駄文の流れをコントロールできていないか。あんなのは遊びだよ!というのはいろいろな意味がある。働くことから逃げている人間を誹謗する言葉でもあるし、やっていることのレベルが低いという意味、目的のある無し...。仕事か遊びかというのは、個人的にはあまり大きな違いではないと思っている。どのカテゴリの中でも、夢中、集中というものが起こったかどうか、ではなかろうか。また、個人的には、芸術と感じるものは、あらゆる人間の行為から滲み出る悲哀や躍動であるとするならば、ことさら音楽やドラムなんてことにしなくても、働く姿、歩く背中に感動を覚えることも珍しくない。また、海を眺め、波がそよぐだけでも心は癒やされる。しかしまた、同じものを見ても感動するときもあればしないときだってある。これは、思考や感情の習慣性や訓練かもしれず、今やスパルタができないこの時代においては、同じもの見て涙するなどということは、消え失せつつあるのかもしれない。

このあたりのことは愛や信仰に向かうので、この戯言の本来の目的とは少し方向が変わってくる。ここでは、リズムというものは、目に見えない微細な動き、常に動いてるということが顕在化されることなのか、止まっている状態から動いている状態への推移なのか。潜在的な原子や分子の振動と連携したときに、 なんらかの共感作用が生まれることが、グルーヴを感じるメカニズムの本質か、そもそも止まるという状態はあり得るのか、それは重力によって熱量を保ったままの停止か、それとも重力から解放された停止か。そもそも地球上にいる限り物体の時間軸は存在しても、意識に投影される音楽という時間軸は、人間の感知能力の何を刺激して起きうるのか、みたいなことに向けていきたいのだが、今朝、起き抜けにバーっと思いついて書いた文章がスマホのコピペの操作ミスで全部消えたので、たぶん消える運命の戯言中の戯言であったのだろうと思うことにする。

ただひとつ、生きている人間が亡くなって天に昇ると表現されるのと同様に、脳内の音楽解釈の世界では、重力から解放されてあらゆる物体が自在に動き出すという状況をイメージさせられる、そんな力があるかなと思っている。そうして解放されて出てくるものは、その時代の、その個人の中にあるものではあろう。音楽が愛になるときもあれば、レジスタンスになるときも、なにかしらの扇動になるときもあるのだろうか。そうなると、解放しないほうが良い時代というものもあるかもしれず、そこには、今度は音楽が形を変えて、鎮魂歌として存在するのかもしれないが、はたしてドラムで鎮魂というのはいったいなんであろうと。それが50〜70年代のビートなのかもしれないという気持ちはあったりする。

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