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シンバルを削っていて起きたこと/山村牧人

以下、シンバルカフェというイベントを終えての感慨です。

うはぁ〜!

シンバル好きが嵩じて、削ったりするようになって、
気がついたらシンバルや楽器での繋がりも増えて、
こんなイベントになりましたぁ!

めっちゃ楽しかった〜!!!

おわり。

としたいところです。

 実際、シンバルであれこれするようになって、本当にいろんなことがありました。思いもよらない楽しく充実した時間がたくさんありました。なんというか、結果的に自分は良いシンバルより、良い仲間との時間を手に入れたように思います。でもそれと同時に、ここは踏み込まないようにしたいというものもありました。それによって起きてきたのがシンバルカフェでもありました。

  以下ダラダラと書いておりますが、要約すれば「みんな思うままにやってみましょうよ。ただ、リスペクトとマナーと品と環境や資源に対する気持ちと、そもそも音楽を演奏することを忘れないように。」という感じであって。レポートなんて、簡潔であるべきなのでしょう。

 そうなのです。そして「面白そうなことやってますね!」って言われて終わればよいのです。それがオトナってもんでしょう。それが求められるエンターテイメントというものでしょう。

 しかし、シンバルカフェが終わった後、自分の中に結構大きな変化がありました。なんだかものすごいさっぱりした気分と同時に、ドロドロした重いものも出てきました。それがなんであるのか、実はよくわからないのですが、文章を作ってみてはボツにして、文章を作ってみてはボツにして、そうして少しは答えがわかるかと思っていましたが、あっという間にひと月以上経ってしまいました。そろそろ何か形にしないといけない。ということで、今までたくさん原稿やら文章ってものを書いてきましたが、ひょっとしたら、こんなに納得せずに書くのは初めてかもしれないということを書きます。

 今回、大阪ももちろんですが、新宿では7人のスケジュールと、ロックイン店舗の都合、しかも休日が好ましいという設定の中、奇跡のように日程が決まりました。このメンバーは、ほぼ全員と一緒に加工したりシンバルをハンマリングしたりした人達です。よく言われるのですが、仲良さそうですよね、お仲間なんでしょ?と思う人もいるかと思いますが、実は結構ピリピリするようなところもあり、必ずしも集まっているとホッできる関係とは限りません。

 みんな適度に距離感があった上で物を言える大人なので(私を除く)、これなら集まれるかな、集まってやってもよいぜ、集まってやらないこともないw、という感じかもしれません。皆、基本は自分で黙々とやっていますから、いろいろな想いが溜まっているものです。同じ人間でも、こだわり過ぎて深みにハマっているときの狭い考えと、達成を感じて広い視野に戻っている時と、会話の噛み合い方も変わりますし、そもそもまったく噛み合わない時もあるでしょう。

 今回のメンバーは、信念的には共通点はあるものの一枚岩ではありませんし、実現に向けては説得的な面もありました。正直、シンバルがなかったら繋がることも共感することもなかったかもしれませんし、シンバルがあるからこそ、真意を読み取れるという場面もあるでしょう。でも、こうして集まったときに起きることを、今回は、イベントという形の中で見ていただくということができました。

 さて。

 このシンバルカフェを行った原点に戻ると、シンバルの加工は、メーカーへのリスペクトを忘れてはならないし、事故や怪我などのリスク、そもそも音楽を演奏することが目的なのに、いつしかコレクションやテクニシャン的な行為に興じてしまわないことの表明でした。自分でレイジングするようになった時、回転させる詳細などは極力ネットなどにアップしないようにしていました。それは、安易に真似するとホンマに怪我するなと思ったからです。そして、シンバルの可能性を共有したいというキモチと、それが安易なSNSネタになることへの違和感、両方があります。

 割れたシンバルのリペア、リサイクルなどの需要もありますから、みんなそれぞれに自分の範疇でやればよいのではありますが、良い状態のシンバルなのにネタ的に加工してダメにしてしまうなんてのはキモチの良いものではありません。また、物事を好きなようにやっている人と、やっていない人の間に生まれる、なんだかよくわからない関係みたいなものにモヤモヤします。なんでしょうかこのモヤモヤ。SNSなどを見ていても、本当にモヤモヤします。それはある意味、この日本という国について昔から感じていることでもあるのですが、それが浮き彫りになっているようにも思います。

 私は料理をしますが、男の人なのにすごいですね〜と褒めてくれる方がいます。餃子を皮から作り、うどんを踏み、カレーのルーを使わずにスパイスだけで作ったり、電子工作とかDIYとかミシンで山の道具作ったりとか、息子の学芸会の衣装縫ったりとか、すごいですねと褒めてくれます。きっと私が褒めてほしくて自慢して話してると思ってくださるのでしょうから、本当に優しい対応でステキなことなのですが、一体何がすごいのでしょうか。私は「餃子の皮なら、私はこんな粉でボーメ値こんくらいでやりますよ」「ミシンの糸はアレがいいですよね」みたいな話がしたいのですが、すご〜い、今度食べさせてください〜で終わります。みなさん本当にお優しい。

 私もそこそこいろいろ楽しみたい派ですが、途方もないほどに物事を追求する人がいます。しかしそういう人達は、あまりの専門性により、変わり者とか、トンデモ系と紙一重のように扱われたりします。そして、「深みにはまらない人間がまとも」であるかのような逆転も感じます。無知は純粋なのでしょうかね。まぁ実際、家庭や生活を壊すほどにのめり込む例もありますので、確かにトンデモな人がいることも確かですが(笑)

 自分であれこれやらない人は、沼にハマっておらず客観的で、やる人は物好きで変わり者。お金を払う人は、自分の手を汚さない。工事現場で働く人とその人達が作った綺麗なオフィスで働く人。料理を作る人と食べる人。トイレ掃除をする人とさせる人。音楽を作る人と聴く人。身体を動かし手を汚す人と、命令する人。受注発注的な、ある種の主従関係。なんの悪気も無いのでしょうけれど、なんか意味があるのかないのかわからない上下みたいなニュアンスを感じます。

 自分の専門外は、もっとうまい人にやってもらえばよいのも確かですし、餅は餅屋というのもあります。しかし、たとえばコンビニ弁当やデパート、最近ではスーパーでもお惣菜よくありますが、みんなよく買っていくように思いますが、あれは「すごい」というほどのものなのかなと思います。作るのめんどくさいって言ってしまえる人はハッキリしててよくわかりますけども。餅は餅屋ってのはクオリティのことが含まれると思うのですが、餅屋もいつしか大量生産になり、競争社会で汎用な製品が多くなり、一番の結果という指標が「めんどくさい」か「コスパ」になってきていると感じます。自分でやらなくてよいという利便性と、自分で作ったときの美味しさを天秤にかければ、あとは値段が合えば、前者を取ることも不思議ではありません。

 しかし、なんというか、モヤモヤします。そもそも、みんな、自分でやってみた上で、合理性やコスパで選択しているのでしょうか。やってみてもいないなら、それはコスパや結果の良し悪しではなく、単にやってみることより、すでにあるものを選択することの利便性であり、ひょっとしたらめんどくさいとかであり、その理由をなにか用意してはいないでしょうか。シンバルに関して言えば、現実的には工具が無い、場所が無い、時間やお金が無い、などもあるでしょうけれど。私は団地のベランダの半畳くらいのスペースで削ったりしてましたし、山本学さんなんてアンビルとハンマーを持って、某公園で叩いたり。私のシンバル回転台も、数千円しかかかってないですから。

 飯を作るなんて俺のすることじゃない。掃除なんてアタシのすることじゃない。土をいじるなんて、力仕事なんて...。そういうこと言う人いますよね。自分よりすごい人がいて、自分にはできっこないというのもあるでしょう。また、お金でなんでもやらせればいいんだ、自分の時間は自分の才能のためにある、みたいなね。世襲の貴族が時代遅れの芸術家になったみたいな感じですかね。まぁ自分も巨万の富を得たら、ジルジャンの株でも買い占めて札束で物言わせて、ブライアン・ブレイドと同じシンバルを作ってもらって...なんてするかもしれませんが(笑)お金があって、お家柄が良かったら、それはそれで良いとは思うのですが、言いたいのは「本当はやってみたらめっちゃ楽しかったりおもしろかったり、自分にしかできないことがあったり、達成感もあったりするかもしれないのに、なぜかみんなできないとかするべきことでないと遠慮のフリをしてしないで済ませようとしてないのかな」と言うことなのです。

 小出工場でのハンマリングが忘れられずに、自宅に簡易的な回転台を作ってシンバルを削るようになったとき、そこにあったのは「やってみないとわからないが、そこを試さずには次に行けない」というものでした。野望とか展望というよりは諦観に近いものです。故に、その作業は自分でやらないと気がすまないものでした。自分がこんなに欲するものの正体やその先にあるものを知りたい気持ちもありました。眼の前にある海に入ってみたい、草原の向こうに行ってみたい、確証は無いけれど、消去法を重ねるしかないという感じです。そうしていたことが、結果としてこういうつながりに発展しているのは、まったく計算外のステキなことであり、正直、大阪、新宿とイベントの形で集まってみた後に、自分でも消化しきれないなにかがあり、こうして書こうとしてみますが、おぼろげにしかわからない。

 思うに、自分ではできない/やらない人が、できる人に何かを頼む。それって、実は自分がほしいと思うものの、生殺与奪を握られているなと思います。大事なところは自分でやりたい、と思うことは自然ではないのでしょうか?自分でやるとしたら時間、労力、失敗など膨大にコストがかかることでしょう。それ故、コスパとしては自分ではやらないということでしょうけれど。それ、経営者ならまだわかりますが。僕らシンバルで演奏したいんですよ。自分で技能を持ったら、そりゃ賢いし、なにより楽しいじゃないですか。そして、誰かにやってもらうにしても「どうしたいのか」が言えなければ、造り手も張り合いも無ければ、それだったらレディメイドの既成品でいいじゃんということになってもおかしくないでしょう。

 不満があるということは、何か不足に気がついているわけで、それを形にできれば、なにがしかの発明や新しいモノヅクリに繋がるかもしれません。人に作ってもらうときに、そういった的確な発注指示ができれば、自分が欲しい通りのものができてくる可能性は大きいでしょう。しかしそこに疑心暗鬼が生まれれば「金払ってるのに良いものができるのだろうか」「あんなに払ったのに、なんだか満足できない」など、言ってみれば、その少し先には、消費者モンスターたらしめるフラストレーションが根にあるのではないかと思うことがあります。

 できる人が偉くて、できない人はひれ伏すという話ではなく、自分が欲しいものを、他者にやってもらわないとできない、他人に任せるしかない、そのためには、本来発注する側は、作り手と同等か、もしくはそれよりも詳しいくらいでないと。しかし、的確な指示や仕様の要望も出すことができないのに、お金のやりとりで形式上成立してしまう。これは、無理難題やおかしな注文によって作業する方のやり甲斐もなくなれば、出来た後のクレームで面倒になっていくこともあるでしょう。経済というものは、売り手と買い手という立場を定義します。本来は対等な筈が、どうしても何かしら立場による力関係を産みますし、そういう気持ちが湧くこともあるでしょう。

 遊びでいいのになぁと思うのです。遊びでいることが、最大の贅沢なのに、とも思うのです。何かをするたびに「これ特許取れますよ」「製品化したらいいのに」「お金取れますよ」...。これも褒め言葉でしょうけれど稚拙です。ちゃんちゃら可笑しいのです。素敵な演奏を聴いて「演奏している人が美女ですね~」というような筋違いでしょう。根源的には褒め言葉なので、誰も文句は言わないでしょうけれど。自分で作ることもしないところから、作るとなったらイキナリ売り物ですか。そんな簡単じゃないですよ、世の中で役に立っている製品というものは。そんな程度の浅い考えだから、世の中の人は、印鑑とご利益のある水だとか、アナタも〇〇になれる!とか、騙されちゃうんじゃないでしょうか。

 そして今や、すべての事柄が、まるで契約かのように振る舞っていると感じます。そりゃぁ自分も、ある部分ではもちろんそうなっているとは思います。今、何をするか。明日何をするか。そのために準備は必要か、目的を達成するために必要な時間と資源はあるか。脈絡も無く湧いてくる欲望に対しても、それを実行に移すときには、いろいろな計算と打算があるように思います。それによって、締切に間に合う、品切れになる前にゲットする...など目的は達成でき、仕事であればそこに金銭も発生することでしょう。

 なぜこんなことを書くかと言えば「何を練習したら良いですか」「何を買ったら良いですか」という質問が世の中に増えていき、それに答え、そのリアクションを見る回数が増えるたびに、能力開発や、ひょっとしたら音楽を好きになることすら、契約のようになっているのかもしれないと感じるのです。そして、人を立場で見て「プロならば」「ドラマーならば」「有名な人だから」「雑誌に記事を書いている人だから」というところから、この人はこれくらいのことを要求できるだろう、というような考え方で人に接することがあるように思えるからです。

 社会的なストレスに対してバリアを張る時代でもありますが、コミュ障だとか言ってる人達よりもむしろ、「自分は何も悪いことはしていない」「他者のサービスを享受することになんの疑問も持たない」という、一般や普通と標榜される人達の振る舞いの変容を感じます。100円で買ったものは無駄にしてもよく、100万円は丁重に...いやまぁ話が違うのはもちろんなんですが、何事もお金を介してのサービスになってしまっているが故に、そういう習性がなにやら身についてしまっていて、音楽や演奏、楽器もそういう風に見てやしないかなということを常々感じるのです。

 日本は、職能や学問に対して厳格に捉えるところがクオリティを築いてきたとは思いますが、極端に言えば細分化が進んで、専門家が専門外をバカにしたり、その逆だったりってのが無かったとは思いません。それはドラム界で言えば、昔のプロとアマの構図みたいなものも似ているかも知れません。しかしそれが内側で対立しているだけになってしまうと、結局対立した同士まとめて井の中の蛙になりかねない。とっとと世界中と、いや外も内もなく、専門家も素人も含めて化学反応した方が面白いと思います。

 かつて、一部の天才や特権階級のものだった音楽演奏が、今では誰もが楽器を手に持ち、多少の練習をすることで奏でられるようになっています。そして、今や金属加工についてはド素人なドラマーがシンバルをいじっている。山本学氏も取り上げていましたが、錬金術師の時代ならば忌避され処刑されていたかもしれません(笑)自然界、環境、音楽、楽器、素材、メーカーや本職の人に対してのリスペクトは忘れてはなりませんが、ある意味では、草の根シンバル加工市民権への入り口にもなりえます。

 もちろん、そのためには、あらゆる層に対して配慮された、あるべきガイドラインというものが必要になるし、それがデリカシーやエチケット、マナー、ルール、マニュアルというものに発展していくべきでしょう。小出社長が、やりたい人が居るならと思うところは、そういうスケールなのかも知れないとも感じます。そうしたことがコミュニティの柱となり、そこに携わる責任や役割を見直す行為でもあり、それはある意味、民主的であり創造性のあるプロセスへのチャレンジと実験のようにも思えます。

 今回のシンバルカフェの良いところは、方向性の違う人達が集まったことではあります。それを眼の前でみんなで共有できたこと。延命寺さんは「ネットだったら批判しあってたかもしれないくらいに方向性が違う人達が集まって、また何か違うものが生まれるものを感じることができた」と言ってくれました。大抵のイベントは、何らかの目的があって、利益を生む仕掛けがあって、どういう結論に落ち着くかというところに契約概念的なお約束もありますが、このイベントはすべてが契約外の、利益性の無い、そして結論も強要せずに、しかしシンバルというものへの興味の尽きない人達が混じり会えたことが、個人的には、本当に奇跡的です。

 情報量が多い時代と言われつつも、実は目で読む記号ばかりが行き来していて、音や温度、耳や肌で感じる気配、生物が近くにいることで動物的に感じる温度や波動のようなものは、一切伝わらない中で、わかったような気になることが求められる。しかし、現実の僕らの感覚っていうのは、天気や気温ひとつで変わりかねないほどの敏感で繊細な面もあります。ともすればそこに生じる乖離がストレスになる人もいる。目の前に本人がいると、ストンと腑に落ちる。音が出ればスゥっと理解できる。完全ではないにしてもその確率は上がる。

 相反して矛盾するものを伴って動くのは、時として非合理かもしれません。しかしアクセルとブレーキを組み合わせて使うことで僕らは目的に行けることを知っているし、なにより大阪編のレポートに書いたように、ドラムセットというもの自体が、相反矛盾するものを、音楽やリズム、ビート、フレーズというものを介して一体化した楽器に仕立て上げたものです。清濁併せ持ち、呉越同舟であることを忌避しすぎると、ドラムも音楽もエネルギー落ちるなぁと感じることは多いです。

 そうして、ポピュラーミュージックを担う音楽人達が行ってきたこと、ドラムセットという楽器を生み出し発展させていったことに対して、すべてを輸入している僕ら日本人が「俺達にだってできるんだぜ」なんていうちっぽけなコンプレックスを越えて「俺達も担ぐぜ!」と音楽の神輿を支えながら参画していくとき、それが世界中の国や人種を越えて化学反応しあうことへの道筋となったら最高だなと思うのです。

以上
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