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観劇日記『フェスティバル♯4Match up』

冬らしい曇り空の下、私は初めてJR野田駅に降りた。
大学時代の友人たちが芝居をするというので、観劇に寄せてもらったのだ。

野田駅の前は古いビルが線路に並ぶように建っていた。ビルの一階はたこ焼き屋や居酒屋などのお店になっている所が多く、その上の階もバーになっていたり何かしらお店が入っているようだった。
劇場の入口は駅目の前のビル、露店の横にあった。そこだけぽっかりと空いているように見えてとても異質。
覗けば急な階段と低い天井が見えて、幅は1人が入るのに精いっぱい。
一緒に来ていた友人は上がる際、頭をぶつけていた。

劇場は3階にあった。2階にはbarがあり、このbarと3階のイベントスペースは同じ経営なのか、2階barには懐かしい顔がちらほら。楽屋的に使っているみたいだった。

barと併設?ということでワンドリンク制であった今回の舞台。
ワンドリンク制が公演の条件だったのかな?
コールドメニューとお酒の提供があったが、温かいカフェオレが飲みたいと思ったのはきっと私だけじゃなかったはず。
寒い日だったから、コールドドリンクは来て早々普通に辛い。
でもまぁ、折角だし飲んだことない物飲むか。といつものチャレンジ精神が顔を出し、ドクターペッパーをお願いする。
缶で渡されたドクターははちゃめちゃに冷たかったけど、缶だったからスグ飲まずに済む!とホッと胸を撫で下ろし小さなカバンに収納した。
ちなみに持って帰ったドクターは、この記事を書きながら頂いている。
杏仁豆腐味の炭酸ジュースって感じ。好き嫌い分かれると聞いたことがあるけど、私は好き。貰ってよかった。

20種類以上のフルーツフレーバー?
そこまで入ったらもうわけが分からない。

私と友人たちが入った時既に何名か着席されていて、席は私たちを入れて9割埋まっている状況。年齢層も様々で結構ご年配の方も客席にはいらっしゃった。
全体で15,6名程入るキャパだったかな。
舞台には白い箱馬が円を描くように設置されている。
大学生の頃、箱馬だけの劇を見た時は衝撃だった。それまで私は舞台美術は色々と作ってドラマの撮影現場みたいなものの中でやるものだと思っていたから。でも、箱馬なのに充分演技でそう見えていく、自然とそう思って観ていられる。その不思議に感動する舞台も、なんじゃこれ全然何か分かんないやと言う舞台も学生の頃は沢山観に行った。
懐かしいなぁ。

『星的現象論序説』感想

作・演出 伊藤芳樹さん
この方が私をこの舞台に誘ってくれた。さかのぼる事1年ほど前?半年前?ちょっと曖昧だけど連絡を取ってくれてちょこちょこ私と会ってくれた。
お互いの戯曲を読み合ったり現状報告し合ったり。
私は、舞台を起こそうとは思っていないけど戯曲を書き続けている。完成しないことの方が多かったりアイデアのまま終わっていたりするけど、作品に向き合うのが好き。そんな私の良い刺激になったのがきっと伊藤さんとの会話だろうと思う。彼は自分の戯曲で公演がしたいと強く望んでいた。だからこそ、今回短編に繋がったんだろう。

プロトテアトル、この劇団は私や伊藤さんの同期生唯一の劇団。創設メンバーとは新たな人間関係ではなく旧知の仲からの再出発、きっと伊藤さんをたくさん後押ししてこの公演に繋がったんだと思う。
そんな個人的な繋がりもありつつ、今回の感想を書いていく。

今回の作品は、宇宙の膨大な時間と人間の生きている時間を同じ感覚でとらえ、死を表現しようとした作品(と、私は思っている)。
おそらくだけど、人生のゴール(肉体のゴール)である死を宇宙という膨大な時間で表現してみようとしたんじゃないかと思った。
その作中でコンフォートゾーンという言葉があった。
コンフォートゾーンとは、その人の居心地のいい空間・環境の事。自分の生活・考え方などのルーティン、普段お付き合いする人たちの関係…要は自分が当たり前に感じている環境そのもの。
様々なメンタルの本やビジネス書で出てくる言葉だ。一昔前「コンフォートゾーンをぶっ壊せ」という言葉はよく煽り文句に使われていた。新しい自分に生まれ変われ、的な感じで使用されていた言葉だ。

今回の作品は、時間と死に注目し、コンフォートゾーンや宇宙、膨大な数字を使うことにより複雑に見えたが、案外安直な死の表現になっていた気がした。そう感じたのはきっと”生”があまりに薄かったから。人間の生きる時間を宇宙の時間と同義でとらえた事もその要因の一つであるように思われる。宇宙の尺度から見た人間の一生なんて刹那もいいとこ刹那。生まれて死ぬまでなんて一瞬。だからこそ、その尺度から見た人間の濃度の高い”生”があって、その答えが”死”なんじゃないかって私は思った。

今回の作品は…学生時代によく私が書いていた物に似ていた。似ていた、なんて私が勝手にそう思ってるだけだから第三者目線は分からないけど。
私の中で詩的に死を表現し台詞にし、戯曲を完成させるのは案外難しくなかった。ただ、辻褄や感覚を合わせるのが難しい。
完成に日を跨げば、無意識に別の感覚で書き始めてしまうから作品がブツブツと切れている感覚を作ってしまう。何故なら、そこを通る軸がない、または弱い。要は自分が本当に表現したいものと向き合えていなかった。
頭で考えて考えて考えた死とは、結局上辺だけなのだ。
フラフラとユラユラと同じようで違う形にあっという間に変わってしまう。
人はプラスもマイナスも体験し、経験し、体感して本物の言葉になる。
今回受け取った印象としては、『死』や『時間』、『宇宙』など膨大なエネルギーの有るキーワードに思考だけでついて行こうとした感じを受けた。
言葉を敢えて気にせず書けば、机上の空論で藻搔いている、そんな感じ。その藻搔きを藻搔いているチープさとしてあえて盛り込んでいるというより、盛込まざるおえなかった、そんな印象を受けた。
きっとこれから彼がたくさんの経験を積むにつれ、作品は自ずと彼の考えをニュートラルに自然に出現させることが出来るようになっていくんだろうな、と帰り道寒さに震えながら思った。彼の中の宇宙はまだまだ言葉に現れていない、要は今回見たのは氷山の一角なのだ。


『ニュータウン』感想

作・演出 F.O.ペレイラ宏一朗さん
箱馬だけの舞台が河川敷に見えた。
向かいにニュータウンが出来る、新しい場所・人間・環境が出来ることを様々な人が十人十色に見つめている。
ニュータウン建設中ってだけでもいいのに、ゴミを埋め立てているって設定を出すのが少し皮肉っぽい。新しい街と言いつつ人が捨てた物で出来ているってちょっとした矛盾のアクセント。なんか一気に気味が悪くなると言うか、そういう気配が漂って不思議。
全体を通して、物語を読む、というよりか、写真を見る感覚に近い舞台だった。
よく市民会館とかでガラスケースの中に飾ってある60年前の街の写真や人の写真…。端っこがちょっと日焼けして黄ばんでて、白黒だったり雑なカラーだったりするあの写真たちを思い出した。
あの写真たちの前後の会話を聞いている感じ。
写真は絵でしか伝わらないけれど、今の私達となんら変わりない会話もあれば、シンプルな情景なのに深く感動する会話が行われていたりしたんだろうか、と考えた。
そこに存在するのかしないのか分からない人などが舞台には混在しており、夢か現か分からない感じがまた見ていて楽しかった。
台詞自体も台詞回しも普通の会話のようで非現実的だったり、リアルだったり。様々な印象を受ける台詞なのに、自然な感じが際立っていた。
特に心を揺さぶられたりガツンと来るものがあったわけじゃないけど、なんとなく秋の晴れの空と風をイメージで受け取って心地よかった。

私の好きな作品について

2人の作品は詩的で、印象的。
私も作品を書いている時、そういう場面を書くのが好きだ。

さらにその詩的な世界に物語という血が流れているのが好き。
物語を描くのはとても繊細で難しい面もあるし、辻褄というものを合わせ、その上、飽きさせない技量が必要。
寝る時に見る夢のようなお話は、急に場面が飛んでも、脈絡が無くても大丈夫だけど、そこに物語があるとある程度制約が出てくる。
物語の最後、一体どこに決着を置くのか。
その決着をつけている舞台を見ることが(学生時代の記憶だけど)小劇場では案外少なかった。
『そして誰も居なくなった』的な終わりやなんとなく元の位置に戻ったり、詩的なまま終わって行ったり。
問題提起はするけれど、その決着はさせなかったり。
私もそうだったなぁ。おかしいな、分からないなってことは沢山あるしイメージもあるんだけど、その決着を突き詰めて考えることはしなかった。というか出来なかった。そこまで真剣じゃなかったってことかもしれない。

改めて今、この私で見つめる世界を丁寧に書いて行こうと2人の作品を見て思う。それは恐らく同期が書いた作品だから。
色眼鏡かけながら、しっかりと楽しませてもらった。





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