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人間関係の「トラブル」と部屋の「散らかり」


何か巷でトラブルがあったとしよう。例えば、誰か他人から嫌なことをされたとか。ひどいことを言われたとか。
「なにぃ!」と怒っている自分は、主観的なわけである。「あいつ、とんでもないやつだ。懲らしめたーい!」とかね。

でも、客観的になって第三者の目で引いて見てみる。
小さな街の、小さな日本の、小さな地球の、宇宙の中でやっている揉めごとと思えば、こんな可愛いアリみたいな取っ組み合い、馬鹿らしくって、少し、どうでもよくなる。怒っている自分も阿呆らしい。
そこから戻ってきて冷静に考えてみると、トラブルの解決法が見えてくる。案外、シンプルに答えが出ることが多い。

最近、私は思うのだが。
「人間関係のトラブル」も「部屋の散らかり」も、似ている気がする。
どちらも「滞り」だ。「停滞」だ。
目に見えない何かが、スムーズに流れていないイメージ。


部屋が散らかっていく過程というのは。私の場合は、たいてい忙しいか、疲れているから。
そして例えば、脱いだ服を椅子にかけたままにして、ぐったりとして寝る。そこが「滞り」の始まりだ。停滞した空気はよどんで流れないので、次の滞りがそこに引っかかる。どういうことかと言うと、なんと次の日も無意識にその上に衣類を置いてしまうのだ。
そして、だんだん散らかっていることに麻痺していく。散らかっているのは頭のどこかでわかっているけれども、もうなんだか風景。何と言っても、忙しくて余裕がない。片付けよりも、先にやらなければいけない家事や仕事がたくさんある。

散らかりをスルーできるのは、主観的に生きているからだと思うのだ。
自分の今の「心」の状態で部屋を見ているから、とっちらかっている「心」で見ているから、気にならない。
忙しくて、とにかく面倒は後回しにしたいという心で見ているから、部屋も後回し。
主観的なのだ。

トラブルがあって、カッカきているときも同じ。
頭にきている「心」の状態で人間関係を見ているから、怒りでとっちらかっている「心」の状態で見ているから、バランス悪く怒り散らかしている自分に気がつかない。
さらに人間関係が「滞って」いるから、相手のやることなすこと気に障ってくる。輪をかけて相手が嫌いになって、もっと「停滞」する。
冷静な、クレバーな解決方法が見えない。


朝、目が覚めて、とっちらかった部屋を見る。
衣類や書類、手紙、コップ、化粧品に本、昨日買ったものが入ったスーパーのレジ袋。
情報が一気に目に入ってきて、また心がとっ散らかる。どんどんと不機嫌で忙しい朝になっていく。
でも客観的に見ると、その部屋どう? 宇宙まで引かなくてもいいけれども(そこまで引くと、部屋の散らかりもどうでもよくなってしまうので)、そうだなぁ、天井の端ぐらいから冷静に部屋を見ると? あるいは、第三者の目、お客さんの目でみると、その部屋どう?
わぁ、散らかって空気が淀んでいる!
これはいいことも起きないよ。
この滞りに、どんどんとネガティブな心が積み重なる。
イライラして、何か悪いことが起こりそうな予感。

なので人間関係も部屋も、早めの「客観視」への切り替えって大事だなぁと、この頃思う。

とりわけ掃除というものは、滞った場をほぐすつもりで。
その場の空気を清めるつもりで。
空気を清めて、澄んだ心を作るつもりで。
いきいきとしたエネルギーを流すつもりでやる。
そうやって掃除をすると、部屋ばかりか、心も清々しく感じるのだ。
後回しではなく、優先事項の上位になってくるのだ。



ここまで読んでくれただけで、うれしいです! ありがとうございました❤️