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枠にはめる


友だちが我が家に来た。
ふわっと、リビングや庭を軽く見回して
「なるほど。アジアンテイストね」と言った。
そう言えば以前も別の人に「ああ。アジア風を目指してるんだ」と言われたことがある。
しかし、我が家はまったくもって家具も照明もファブリックもアジアンテイストではないので、「え。そうかな」と驚く。そして、なんだかモヤモヤとする。

冷静に後から考えると、出窓にアジア旅行のお土産が置かれていたから、そう思ったのかもしれない。それと、大きな南国系の植物がちょっと庭に植えられているからかな。
でも、それは本当に全体の中のほんの一部であって全てではない。そして、あえてアジア風を目指してないので、ピントが外れた意見にモヤッとしている。
確かに、そう思わせる印象が少なからずあるのだし、どんな意見を持つのも自由だ。けれど、私の趣味をわかってもいないのにわかった気になるな、と思っちゃったのだな。
そしてさらに本音のところは、こんな感じだ。
正直、他人から勝手にカテゴライズされるのは嫌いなのだ。

仕事先でも、会話の端々に「ああ、今泉さんは○○だからさぁ」とか「あの人は●●だから」と、すぐカテゴライズしてくる人がいる。
なぜモヤっとするかと言うと、それは上から目線で、自分を昆虫のようにポイポイ分類するからだ。わかった気になっているからだ。人というものはもっと繊細なものなのにざっくり枠に入れられると、雑に扱われた気になってしまう。
「ねぇ。私のこと、ちゃんと見てるの?」って、聞きたくなるのだ。
もうそこに安心して、他の細かいところを観察する気を起こさないと言うか。要するに扱いが乱暴なのである。
「おまえのことは、もう全部わかっているんだよ」と、そう聞こえる。
カテゴライズ行為というのは、不安からくる一種のマウンティング行動なのかもしれない。

しかし本来カテゴライズ、つまり分類というのは悪いことではないのだ。
分類は学問のスタート地点だ。
この世の中を分類し、整理して、系統づけるのが学問の始まりだ。

でも、やっぱり自分はサルや植物ではない。
世間が決めた枠組みの中に、ポイポイと自分や自分の部屋や自分のファッションを投げ入れられると、本当にわかってくれる気があるのか不安になる。
なぜならその枠組みはあなたが作ったものではなくて、世間が作った枠組みだから。勝手に種類別の収納ボックスに放り込まないでほしいのだ。

もちろん、私も分析癖があるので、心の中で人をカテゴライズしてしまうことはある。「『バブル世代』だなぁ」だとか、「これが『ゆとり』と言うことなのか?」だとか。
でも、決して口に出さないようにしている。人を一括りに枠に入れるのは、あまりに失礼だからだ。
ここで書き出してみて改めて、気を引き締めていかなくては、と肝に銘じている。



ここまで読んでくれただけで、うれしいです! ありがとうございました❤️