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表現のこれから

【表現のこれから】
私の体感的なルーツは幼少期を過ごしたブラジルにあります。
茶人や軍人さん等がご先祖にいるし、すぐに日本に帰国しているので、日本人的要素もきっとすごく強いのですが。。

一般企業に勤めてしばらくして、上司から
「悪い意味で染まってる。もっと尖ってたし、それが良さだから出して」と言われました。
確かに電話対応や、正しい敬語、ビジネスの場面で「こう言われたらこう謙遜する」「コレは失礼で、コッチなら無難」等の線引きをしっかり出来るようになって来て、環境に慣れて来た頃でした。(軽く皮肉ってる感じはあるかもですが私にとって適応は人生の喜びです)

〝出会った頃こそ、偏見たっぷりに裏切り者検出モジュール(空気読まない人を排除したくなる、脳の機能のことです)をビンビンにさせてたくせに何だかな…〟と感じたのは秘密ですが
私は今人生の中で最も日本人的なのかもしれないなぁと思いました。

決定的にそう感じた理由は、ロバートキャンベルさんゲスト・ハフポス編集長 竹下さん主催の「賛否両論アート作品を二度見する会」に参加したことにあります。(すごく面白かったです)

元々「つうな人達がこぞって好むコレは一体なんだろう?好きではないけど気になるな…」という気持ちでチャレンジしている領域ー現代アートは必ずしもいつも視覚美術としてのクオリティは高くなく、ファインアートのような「魅せる姿勢」はないのかもしれない。その時点でいつも不可解な価値観だったし、時々それがすごく嫌だった。

中には社会的に弱い立場の人やトラウマを刺激するような数々のアート。「二度見する会」で取り上げられた作品についても個人的にはその挑発的な表現に不快感を覚えた。(ChimPomさんの広島の空をピカッとさせる作品です)

それで、問題は最近のSNSの影響も含めた「壮絶な排除行動」です。あいちトリエンナーレのときも人々は感情で強く反応したし展示中止の事態に陥った。
人の脳、特に日本人は「和を乱すものを発見して排除しようとする機能」そして「もしかしたら異物かもしれないものに対しても過剰に反応する機能」が発達しています。
平和を愛する穏やかな性質の裏面は、あの「陰口が好きな女子の集団や、美徳化されてしまうパワハラ社会」なのだと思います。

いじめをする時人はそれを制裁行動だとします。制裁は人を強くなった様な気にさせるし、やらなければいけないと突き動かします。アート作品を過剰に裁判にかけたがるのも実はいじめだと思います。
感情が高ぶり、けしからん排除せよと、そこで思考が停止するのは脳が発達段階である中学生と何ら変わらない。
白と黒ではなくグレーのままにする意識、もしくは人は全員違う人間であって「当たり前はない」と捉える経験が必要です。

実は私もいじめをする気持ちが分かる気がします。現実に、心をざわつかせるような作品を作る人に対しては不信感を抱くし、「手段を選ばず差別化を図ってでも目立ちたい欲求」が強いな…と批判的に捉えそこで思考停止。それに社会人に求められる責任を果たす中では、人のことを考えないなんて言語道断。自分自身に課している負荷によって「正義感や責任感」が強くなっているのを感じます。

でも、コレではダメだと思います。きっと少しずつ思考が停止してしまう。何よりもいじめは超ダサい。それが例えちょっとしたものでも。

そんなこんなでとても有意義で面白い鑑賞プログラムでした。私の個人的な話ばかりでしたが感想でした。
#表現のこれから

賛否がなくても、「良質な空間」は生まれる。ロバート キャンベルさんとの会話から
https://www.huffingtonpost.jp/entry/ryan-takeshita_jp_5dedee79e4b00563b853c152?0un

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