嘘をつきたくない、(2021年3月)

嘘をついて、それが相手に悪い様に伝わって、結局損をしてしまう。あのホワイトキューブの様な空間で、一般的な愛想やリアクションやユーモアは懐疑的な視線を向けられていた様な気がするし、真剣じゃない人は排除されかけていた。競争が激しかった。
真剣になるために、もしくは真剣さを証明するために、私の人格は変わったのだろうか?ドラマの中で揶揄される「ジョークが通じない宇宙人の様な芸術家」がもはや他人事に見えなくなってくる。私の予測通り私は社会性を犠牲にしているのだとしても、その割には大した成果を出せていない気もする。
「社交的で明るい面白い人」になるためには沢山の小さな嘘を積み重ねなくてはいけない。そしてそれは大概自信のなさをカバーする為だったり、自分がカッコつける為だったりする。社交的で明るくて面白い人の大半は自分が正解だと信じて疑わない。その感覚は昔の自分が知っているし、かといって当時の個性だけを抽出して取り戻すことなど出来ないのだ。
美容に力を入れて、ダイエットもお洒落も頑張っている人が、走らないデブを自然と見下してしまう気持ちだろうか。そして、そこまで美容にこだわらなくても自分は価値ある人間なのだと気がついてからは、もはや辛いを思いをしてまでウエストを絞る動機を失なっているというものだ。
滑るリスクや「演じた姿」をキープする痩せ我慢といったデメリットを差し置いてでも、常にユーモアを重視する。その姿勢には、そういう人が発するオーラにはやはり説得力や活気の様なものがあって、今となっては私もそれらに圧倒されている。その人の内面には負荷がかかっているからだ。(その人が苦痛を感じているかどうかは別として)
話が前後している気もするけれど、なんというか、人前で「自分を演じている」のがもう寒いのだ。
気を遣って(正しくは退屈が嫌いで)場を面白くしようとしたり、周囲の人にすっかり染み付いた自己イメージを演じ切ることに喜びを覚えていた。(基本スタンスは芸人だけど、弱いところもあるなど?)あまり興味がないのにわざと声のトーンを変えてみたり、基本的には人のテンションを上げることに強い喜びを感じつつも、時々それにも飽きて、軽口を叩いてはひんしゅくを買った。
現在の自分と比べてしまうと、自分の心も他人の心も大切にしていなかった気がする。軽薄とも言えるコミュニケーションの取り方が、「好きな人と楽しい気持ちでいたい、もっともっと楽しくなりたい」そういうポジティブな面ばかりで発揮されていればいいのだが。
自分のことなのでネガティブに捉えすぎだろうか。でも「昔は出来ていたはずなのに今はなぜか出来ない。しかもその能力を未だに求められる(気がする)」そう言った状況では余計に過去を否定したくなるのも無理はないだろう。

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