[通読メモ]サムエル上14-28章

ヨナタンとその周辺

今回はヨナタンを取り上げる。


【☆ヨナタンの聖書の中での立ち位置】

ヨナタンは初代イスラエル王であるサウル王の長子であり(サム上14:49)、自分たちが死んだ後に新王朝の祖となることになるダビデ王を特別愛した人物である(サム下1:26)。
二人の重要な王の間に挟まれて、聖書中の歴史における立ち位置は脇役かもしれないが、僕は預言者ダニエルと並んで、このヨナタンを旧約聖書の中で最も尊敬し、模範としたいと思っている。


【☆出自】

ヨナタンはベニヤミン族出身でサウル王の息子である。

兄弟構成はサム上14では「ヨナタン、イシュヴィ、マルキシュア」となっているが、
サム上31:2によればペリシテ軍はサウル王の子らのうち「ヨナタン、アビナダブ、マルキシュア」を殺したとあり、サム下2:8によれば生き残ったサウルの子イシュボシェトがダビデ王に対抗して擁立されているので、ヨナタンを合わせて四人兄弟がいたと思われる。(イシュヴィ=イシュボシェト?)
歴代誌上8:33もサウルの息子として「ヨナタン、マルキシュア、アビナダブ、イシュバアル(=イシュボシェト?)」を挙げている。

姉妹にメラブとミカルがいて、ミカルはダビデと二回結婚しているが、ダビデとの間に子は残していない(サム上18:27, サム下3:14, 6:23)。

ヨナタンの母はアヒマアズの娘アヒノアム(サム上14:50)となっており、もしかすると少し重要人物かもしれない。
このヨナタンの祖父の名前アヒマアズは大祭司家系に見られる名前であり、ヨナタンの名もそうである。(サム下15:36)
大祭司家系のアヒマアズは有名なダビデ・ソロモン治世の大祭司ツァドクの子である(歴上6:8)。もしツァドクの子アヒマアズとヨナタンの祖父アヒマアズを同一視する仮説を取るとすると年代設定にはかなり無理が生じる。というのも大祭司ツァドクは少なくともダビデの治世四十年間(列上2:11)を越えてソロモンの即位時まで存命であるため(列上2:35)、ソロモンの即位年に非常に高齢なパターンを考えて120歳だったとしても、ダビデの即位年(ヨナタンの死去年)に80歳である。ヨナタンはサウルの治世初期において軍隊の統率を任されている(サム上13:2-3)ため、その時点で20歳以上である(民数記1:3)。一方ダビデはヨナタンと出会った頃まだ戦争に従軍できる20歳を超えておらず、兄七人のうち四人もまだ戦争に行っておらず(サム上16:10-11, 17:13)つまり兄四人が20歳未満と思われるため、八男のダビデは当時およそ15歳以下である。ダビデが即位したのは30歳である(サム下5:4)ため、同年にヨナタンが死去した年齢は最低でも20+(30-15)=35歳以上ということになる。ツァドクの子アヒマアズがヨナタンの祖父で、ヨナタンの死去年にツァドクが80歳以下、ヨナタンが35歳以上とすると、(80-35) ÷ 3 = 平均15歳以下でツァドク・アヒマアズ・アヒノアムが子を生まなくてはいけないことになり、かなり不自然に感じる。ただしヘブライ文化における男子の成人(バル・ミツヴァ)は満13歳(女子は満12歳)であるため、完全にはヨナタンの祖父アヒマアズとツァドクの子アヒマアズを同一視する仮説を棄却することはできなかったが。
いずれにせよ、これらのアヒマアズが「親戚」くらいの予想はあっても良い。名前が一緒だからと関係を想定するのは安易かもしれないが、ヘブライ文化では親族の名前を継ぐのが基本である。ルカの福音1章61節では祭司ゼカリヤが洗礼者ヨハネをヨハネと命名しようとすると周囲が「あなたの親戚にヨハネという名はいないのに」と発言している。ヨハネはおそらくはありふれた名前なのに、それですら親戚にいなければ付けることに抵抗を感じる文化らしい。

大祭司家系とベニヤミン族の血縁関係を想定できる理由は他にもある。士師記19章からのエピソードがによると、ベニヤミン族がある旅人の妻を殺したことに対して全イスラエルが復讐し、ベニヤミン族をほとんど滅ぼすに至ったが、残存した六百人のベニヤミン族の精鋭男子の生き残り(士師20:47)に、ヤベシ・ギレアデという地域の女性四百人(士師21:12)とシロの女性たち(士師21:21)を娶らせて民族の存続を図ったらしい。
ベニヤミン族とヤベシ・ギレアデの住民の深い関わりは、サウルの代に及んでいることがところどころ読み取れる。(サム上11:1-11, 31:9-13, サム下2:4-7)
そしてもう一方のシロという地域が、大祭司家系が神の箱と共に居住した地域(士師18:31, サム上14:3)であり、それを考えるとベニヤミン族と大祭司家系にある程度姻戚関係が維持されていてもおかしくない。
またレビ人はイスラエル全体に散らばっているが、レビ人のうち祭司家系には十二部族のうちのユダ・シメオン・ベニヤミンの三部族から居住地を得ているため、祭司家系はこれら三部族と婚姻関係を持つ可能性がもともと高くなっている。

ヨナタンはサウルの息子だが、サウルの系図は難しい。
サム上9:1のレニングラード写本(ヘブライ語聖書)によると

サウル - キシュ - アビエル - ツェロル - ベコラテ - ベニヤミン人アピア

だが同節の七十人訳ギリシア語聖書は

サウル - キス - アビエール - サレド - バキル - イェミナイ人アフェク

となっている。バキルは歴上7:6でベニヤミンの子として出てくる人物(べケル)と同じスペリング。イェミナイ人(Ieminaios)は七十人訳内では三回登場し、ヘブライ語でベニヤミン人となっているところの置き換えで登場している。もちろんベニヤミン人というのも七十人訳でもたくさん出てくるのでそれと別の語。一度目はサム上4:12で祭司エリに契約の箱がペリシテ軍に奪取されたことを報告する人物がIeminaiosと呼ばれており、あと二回はサム上9:1と9:21でサウルの氏族の名として出てくる。変化形らしいIeminiという語が七十人訳であと二回登場し、サム下16:11にダビデを呪ったシメイについてダビデが「Ieminiの子」と表現しており(ヘブライ語聖書ではここもベニヤミン人)、列上2:35L(七十人訳でヘブライ語聖書より長くなっている)にまたシメイについて「ヘブロンから出たIeminiの後胤なる子、ゲラの子セメイ」と紹介されている。
書いてるうちに気づいたけれどヘブライ語を見ていくとベニヤミンBeNYaMYNという名はBeN("子")+YaMYN("右")という構造なので、本来は一つの固有名詞であるところ、サム下16:11のヘブライ語は二つに区切ったようなBeN-Ha(定冠詞)-YaMYNという表記になっている。七十人訳の「Ieminiの子」という訳はこれを分解して訳したもので、IeminiやIeminaiosというベニヤミンと別の部族がいたわけではなさそう。ヘブライ語のサム上9:1に至ってはBeN-IYSh("男")-YaMYNYという表現になっている。意味としてはベニヤミン人の男なのだろうけど、確かにヤミン人の男子と訳す方が厳密ではある。

また、サムエル記によるとサウル軍の長官アブネルはサウルの父キシュの兄弟ネルの子とされている。(サム上14:51)

歴代誌にもサウルの系図が二回書かれている。9章によると

ギベオンの父エイエル→ネル→キシュ→サウル

となっており、エイエルとその前の系図との接続は不明。
エイエル→ネル→キシュという解釈は、長子アブドンからミクロテまでを兄弟とみなした場合である。実はここはエイエルの子(単数)としてはアブドンだけが明示されている。他はand-名前の系列になっているため、もしかすると子孫を意味するかもしれない。
その場合は

エイエル→アブドン→ツル→キシュ→バアル→ネル
→キシュ→サウル

という系図になり、ネル→ナダブ→ゲドル→アヒオ→ザカリヤ→ミクロテ→シメアムがサウルの従兄弟系統かもしれない。ここではネル→アブネル(→?)という系図は無視されているかもしれない。アヒオは「彼の兄弟」を意味する名前なのでここでも系図の分岐がある可能性がある(七十人訳はadelphos autou=彼の兄弟と訳す)が少なくとも現存のヘブライ語文章では固有名詞と取る方が自然に思える。

サムエル記と歴代誌ではサウルの祖父の名が異なる。
サムエル記ではアビエルの子がキシュとネルで、キシュの子がサウル、ネルの子がアブネルとあるが、
歴代誌ではネルの子がキシュ、キシュの子がサウルとなっている。
ネルがサウルの祖父とおじとして出てくることについては、同名異人である可能性もあり、同一人物の可能性もある。

二書のネルが同名異人である場合は、単に父の名を子が継いだだけで、聖書中に多く見られる話である。この場合、ネル1世の子にネル2世とキシュがいたということになる。
二人のネルの話のほか、キシュの父にアビエルとネル1世の二人の父がいることにも説明が必要になる。同一人物の別名である可能性もあるし、レビレート婚(申命記25:5-6)が起こった可能性もある。
レビレート婚とは子無くして死んだ嫡流男子がいた場合に、その死んだ男子Aの未亡人Bを男子Aの弟やおじや従兄弟といった近親男子Cが娶って、その間に生まれた長子DにAの名を継がせAの子とするという制度である。つまりレビレート婚による子Dは血統的父がCであり法的父がAと、二人の父を持つことになる。
たとえばルツ記のルツとボアズの間に生まれたオベデは、血統的な父はボアズであるが、法的な父はルツの前夫マフロンである。それで、ルツとナオミにも血統関係がない嫁姑であるのにも関わらず、人々はオベデについて「ナオミが子を産んだ(ルツ4:17)」と言っている。法的にはオベデはエリメレクとナオミの孫であるためである。
さてサウルの祖父として二つの名前が出てくる理由としてレビレート婚を仮定した場合、ネル1世の子ネル2世とは実はネル1世の実子ではなく、ネルの未亡人と、アビエルという名のネル1世の近親との間の長子であるという推定ができる。するとネル2世とキシュはアビエルの血統的な子でありかつネル1世の法的な子ということになる。しかしここでキシュがネル1世の法的子と本当に言えるのかは疑問符がつく。律法では兄系統の家系を継がせる義務に関してレビレート婚による長子についてしか言及がなく、次子以下については法的にも実父の子となりそうにも思えるからである。

また別の可能性として、二人のネルを同一人物とみなす可能性もあるが、これはかなりアクロバティックな解釈が必要で、例えばアビエルとバアルが同一人物で、アビエルがネルを生み、アビエルの後妻、ネルの継母とネルの間にキシュが生まれた可能性などが想定できる。この場合キシュにとってネルは兄であり父ということになる。この婚姻関係は律法違反である(レビ記18:8)が、ヘツロンの子カレブ周りの系図でこのような例がある(歴上2:24)。
アビエル(ABYEL)とバアル(BaAL)の同一視はアビエルとネルの同一視よりは筋が良い。バアルは異教神の名であり、サウル家にはバアルの名を含む名と含まない名の二つの名を持つ人物が複数確認されるためである。
具体的には
イシュバアル/イシュボシェト(サム下2:8, 歴上9:39)
メリブバアル/メフィボシェト(サム下9:12, 歴上9:40)
である。

いずれにせよサムエル記と歴代誌の系図は祖父の代から以前も全然違いすぎているので、無理に調和させようとせず、二つの全く別の系図がどのような経緯で伝承されたのかを考えることが有益かもしれない。そもそも歴代誌にはベニヤミン族自体に二系統の全然違う系図が示されている(歴上7:6, 8:1)ため、これらの系図の関係を調べるのが先決かもしれない。

ヨナタンには母アヒノアムを通した同母兄弟の他に、サウルの妻アヤの娘リツパの子らを異母兄弟として持っており、アルモニとメフィボシェトという名が挙げられている。(サム下21:8)
ヨナタンの子もメフィボシェトという名である(サム下4:4)が、ヨナタンの子とヨナタンの異母兄弟であるメフィボシェトに特別な繋がりがあったかはわからない。先祖の名前を継ぐという原則に従うと、ヨナタンの妻がヨナタンの異母兄弟の子であった可能性もある(これは律法違反ではない。レビ記20章)が、単に共通祖に同名の人物がいたのかもしれない。

【☆ヨナタンという名前】

ヨナタン(意味は「ヤハウェは与える」)の名前は聖書中に何人か登場するが、ヨナタンと近い時代にも数人いる。同名は親族関係を表す可能性があるので、注目する価値があると思われる。

最も有名なのが

①大祭司アビアタルの子ヨナタン

である。既述のようにヨナタンの母方の祖父も大祭司かその親戚かもしれないので、この大祭司アビアタルの子ヨナタンとも親戚かもしれない。ただし大祭司アビアタルとヨナタンの祖父と同名の大祭司アヒマアズの父ツァドクは、前者がアロンの子イタマルの系統であり(歴上24:3-6)、後者がアロンの子エレアザルの系統(歴上6:8)である。
初代大祭司アロンの後を継いだのはエレアザルであり(民数記2:26)、その次はおそらくエレアザルの子ピネハス(士師20:28)であり、出エジプト記から士師記まで読んだ段階ではエレアザルの系統が大祭司を代々務めるものだろうと読者は予想するが、なぜか士師記の時代の祭司たちについては記述があまりなく、サムエル記に入るとシロの祭司エリがもともとピネハスの守っていた神の箱を管理する祭司としてしれっと登場し、この系統はエレアザルの弟イタマルの系統であり、しかもおそらく胸当てのついたエフォド、つまり大祭司のエフォド(出エジプト28:26-30)を継承する大祭司の家系であったことが明かされている(サム上14:3)。大祭司の地位も嗣業の土地のように親から子へ男系継承されていくことが予想されるので、どのような過程を経てエレアザル系の祭司からイタマル系の祭司へと中心的役割が移ったのかは謎である。
僕はシロの祭司エリの息子にエレアザルの子ピネハスと同名の人物がいることから、エリの子ピネハスはイタマルの子孫であると同時にエレアザルの子孫でもあったと予想している。またイカボドの兄弟アヒトブとツァドクの父アヒトブも同名であり関係があるかもしれない。これらの、エレアザル家とイタマル家の接続を考える上で、シロの娘たちとベニヤミン族の関係(ベニヤミン女子の絶滅事件は大祭司ピネハスの代に起こっている。士師20:28)や、大祭司アビアタルの子ヨナタンとサウルの子ヨナタンの関係の検討はヒントになるかもしれない。
ちなみに大祭司アビアタルの代に、ソロモン王によって大祭司家系は再びエレアザル系に移される。(列上2:35)

士師記の時代にエレアザル系からイタマル系に大祭司位が移った際のごたごたについてサマリア人の伝承がある(シロの祭司エリに対抗してサマリアでエレアザル系統の祭司が立っていたとするもの)。サマリアの大祭司の正統性を補強する物語であって創作かもしれないが、もしかすると参考になる可能性もあり、精査したいが、今のところ原資料にあたったことはない。[cf. 英語版wikipedia "Samaritan High Priest"の項]


②ダビデのおじヨナタン(歴上27:32)と③甥のヨナタン(歴上20:7)

"Also Jonathan David's uncle was a counsellor, a wise man, and a scribe: "1 Chronicles 27:32

ダビデのおじヨナタンは相談役、知者、書記として紹介される。uncleと訳される「DOD」というヘブライ語は友を意味することもあるが、父方のおじを意味することが多いらしく、七十人訳では明確に「父の兄弟pateradelphos」と訳している。

もしこれを信じるとするとこのヨナタンはエッサイの兄弟ということになる。エッサイはダビデが少年のころに年老いていた(サム上17:12)ので、エッサイの兄弟だとするとおそらく弟だろう。

また、ダビデの兄弟シャンマ(エッサイの三男)にもヨナタンという息子がいて、巨人を殺したとされる(歴上20:7)。別の箇所でシャンマにはヨナダブという子があり、このヨナダブはダビデの長子アムノンと友人であったとされる(サム下13:3)。

これらダビデの親戚のヨナタンはベツレヘムのユダ族であったモーセの孫ヨナタン(士師18:30)から名を継いでいると思われる(この人物がヨナタンの名の初出)。ユダ族のヨナタンとサウルの子ヨナタンの親戚関係の有無は不明。(ヨナタンの祖父モーセとアヒマアズの父祖アロンまで遡れば親戚だろうと予想するけれど)

このモーセの孫ヨナタンは、ユダのベツレヘムからエフライムの山地に移動して、ミカという人物のもとで私的な(?)祭司となるが、ダン族が北方へ大移動する際にミカの家を略奪したため連れ去られ、ヨナタンの孫がダン族の祭司となったとされている。


ヨナタンの名は新約聖書には出てこないが、旧約聖書続編のマカバイ記に祭司王となったハスモン朝のヨナタン(在 c. BC 150)がおり、また福音書に出てくる大祭司カヤパの次代の大祭司としてカヤパの岳父アンナスの子ヨナタンが記録されている。

【☆ヨナタンの子孫】

ヨナタンの子はメフィボシェト/メリブバアルだけが記録されており、その後の子孫が記録されている。サウル王家は側室リツパの子もダビデによってギブオン人に引き渡され処刑(サム下21:8-9)されているため、ヨナタンの子メフィボシェトを通した子孫だけが後代まで生き残ったかもしれない。

エステル記に関する第二タルグム(タルグムは旧約聖書のアラム語翻訳で、本文に口伝や解釈が付加されているもの)によれば、情報源が不明だがエステルのおじモルデカイの系図を以下のように記録している[Targum Sheni II]。

MRDCY(モルデカイ) - YAYR(ヤイル) - ShM❜Y(シムイ) - ShMYD❜(シュミダ) - B❜NH(バアナ) - ALH(アイラ) - MYCH(ミカ) - MPhYBWShTh(メフィボシェト) - YHWNThN(ヨナタン) - ShAWL(サウル) - KYSh(キシュ) - ABYEL(アビエル) - TsRWR(ツロル) - BCWRTh(ベコラト) - APhYH(アピア) - ShChRYTh(シュハリト)  - ❜WZYH(ウジア) - ShYShK(シェシャク) - MYCEL(ミカエル) - ELYEL(エリエル) - ❜MYHWD(アミフド) - ShPhTYH(シェファトヤ) - PhThWEL(プトエル) - PhYThWN(ピトン) - MLWC(メロク) - YRWB❜L(エルバアル)- YRWChM(ヨルカム) - ChNNYH(ハナニヤ) - ZBDY(ザブディ) - ELYPh❜L(エリパアル) - ShMRY(シムリ) - ZBDYH(ゼバドヤ) - MRYMWTh(メリモト) - ChWShYM(フシム) - ShHWRH(シフラ) - NZH(ネザ) - BL❜(ベラ) - BNYMYN(ベニヤミン)

ベニヤミン族の系図である歴代誌8章に出てくる名がちらほらあるが、繋がりが歴代誌と全然違う。ベニヤミン族の系図はやっぱり複雑。。

ヘブライ語聖書でも、モルデカイとエステルがキシュに遡る系統であることは述べている(エステル2:5)。もしこのキシュがサウルの父キシュであるとすれば、おそらくエステルはサウル王家の子孫であり、従ってヨナタンのメフィボシェトを通しての子孫であったと思われる。ユダ族の頭であるダビデは、敵の王家の嫡男メフィボシェトを、ヨナタンとの契約の故に命を救い、お世話した。何百年も何世代も後になって、メフィボシェトの子孫、王妃エステルはユダヤ人全体を守るために立ち上がった。エステルがダビデとヨナタンの契約まで意識していたかはわからないが、世代を超えてメフィボシェトの恩返しが為されたようにも見える。

【☆ヨナタンとくじびき】

ヨナタンに関する記事において、興味深く、また重要と思われる箇所がある。ヨナタン自身に関係するというよりは、聖書における「神の意志」について、一つの解釈の土台を提供すると思われる箇所である。

サムエル記上14章において、ヨナタンは単身でペリシテ軍を攪乱し、彼の活躍によってイスラエル軍はペリシテ軍に圧勝する。しかしヨナタンが別行動をしている間に、サウルは兵士たちに「食べ物を食べてはならない」という誓いを立てさせており、それを知らないヨナタンは行軍中に蜂蜜を食べてしまう。

その後、サウルは追撃に関して「神の意志」を確認しようとするが、「神はサウルに答えられなかった(サム上14:37)」ため、サウルは軍隊に罪があったと考え、罪を犯したものを特定するべく、くじを引くことにする(14:41)。

サムエル記上14章は、この「くじ引きによる神の意志の確認」について、手続きの詳細の一端を明らかにしており、選択肢を二つに分けながら二つのくじを引く様子が確認できる。つまりまず「兵士たち」と、「サウル父子」に二分してくじを引き(14:40-41)、「サウル」と「ヨナタン」に二分してくじを引いて(14:42)、ヨナタンが原因であったと特定される。

つまりくじにはあたりとはずれの二種類がひとつずつしか存在しないものと思われる。ここでこの「くじ」とは、「ウリムとトンミム」のことであることがほぼ確実な類推となる。

胸当ては、その環とエフォドの環を青いねじりひもで結び、それがエフォドの付け帯の上に来るようにし、胸当てがエフォドからはずれないようにする。このようにして、アロンは聖所に入るとき、裁きの胸当てにあるイスラエルの子らの名を胸に帯び、常に主の御前に記念とするのである。裁きの胸当てにはウリムとトンミムを入れる。それらは、アロンが主の御前に出るときに、その胸に帯びる。アロンはこうして、イスラエルの人々の裁きを、主の御前に常に胸に帯びるのである。” 出エジプト記上28:28-30
”彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のために、主の御前でウリムによる判断を求めねばならない。ヨシュアとイスラエルのすべての人々、つまり共同体全体は、エルアザルの命令に従って出陣し、また引き揚げねばならない。”民数記27:21

ウリムとトンミムによって判断を為すのは大祭司の職権であることがわかる。また、このウリムとトンミムのついた胸当てのついたエフォドという衣装が大祭司の資格を示すものであったと思われる。

このヨナタンに対して行われたくじ引きも、その場にいた(大)祭司アヒヤによって執行されたものであろう。

そこには、エフォドを持つアヒヤもいた。アヒヤは、イカボドの兄弟アヒトブの子であり、イカボドはシロで主の祭司を務めたエリの息子のピネハスの子である。兵士たちはヨナタンが出て行くのに気がつかなかった。”サムエル記上14章3節
”サウルはアヒヤに命じた。「神の箱を運んで来なさい。」神の箱は当時、イスラエルの人々のもとにあった。”サムエル記上14章18節

すると、神の意志として記述されている「声」のうちの一部あるいは大部分は、実はウリムとトンミムのくじ引きの結果であり、従って選択肢は人間の側で用意しているものの可能性がある。

例えば、わざわざエフォドを持ってこさせて神の意志を聞こうとする場面は、くじを引くためにそうしているということが推測できる。

”ダビデはサウルが自分に危害を加えようと計画しているのを知って、祭司アビアタルに、エフォドを持って来るように頼んだダビデは主に尋ねた。「イスラエルの神、主よ、サウルがケイラに進んで来て、わたしゆえにこの町を滅ぼそうとしていることを僕は確かに知りました。ケイラの有力者らは、サウルの手にわたしを引き渡すでしょうか。僕が聞いているように、サウルはケイラに下って来るでしょうか。イスラエルの神、主よ、どうか僕にお示しください。」主は「彼は下って来る」と言われた。ダビデが、「ケイラの有力者らは、わたしと兵をサウルの手に引き渡すでしょうか」と尋ねると、主は「引き渡す」と言われた。”サムエル記上23:9-12

つまり、この箇所は、主が「彼は下って来る」「引き渡す」という内容を言葉によって伝えているように一見すると捉えてしまうが、実は「Aでしょうか、not Aでしょうか」というダビデの問いに対する、大祭司の裁きの胸当てから引かれるウリムとトンミムの結果が、二回「A」を示した、というのが実際にあったことであると思われる。以下も同様のことが言える。

”ダビデは、アヒメレクの子、祭司アビアタルに命じた。「エフォドを持って来なさい。」アビアタルがダビデにエフォドを持って来ると、ダビデは主に託宣を求めた。「この略奪隊を追跡すべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」「追跡せよ。必ず追いつき、救出できる。」という答えであった。”サムエル記上30章7-8節

そして、多数の選択肢がある場合には、選択肢群を二つに分けながら正解を特定する手法が採られていたということを示しているのがこのヨナタンに対するくじ引きの箇所である。このように考えると、字面だけだとそうであるとはわからないが、ウリムとトンミムで二分していく方法によって占われている可能性が高そうな箇所が非常に多く出てくる。例は以下のようなものがある。

・盗みを働いたアカンを特定する手続き(ヨシュア記7章)

・ヨシュアのギブオン救援の行軍の判断(ヨシュア10:8)

・十二部族への土地の分配のくじ引き(ヨシュア18:6, 8-10)

・ユダ族が嗣業の地を得るための行軍の判断(士師1:2)

・ベニヤミン族征討のためのユダ軍の行軍の判断(士師20:18)

・ベニヤミン族征討のための再度の行軍の判断(士師20:23)

・ベニヤミン族征討のための三度目の行軍の判断(士師20:28)

・サウル王の選出と探索(サム上10:20-22)

・ヨナタンを特定した手続き(サム上14)

・ダビデのケイラ救援のための行軍の判断(サム上23:1-4)

・ケイラを退去すべきかの判断(サム上23:10-13)

・アマレク人を追跡のための行軍の判断(サム上30:5-8)

・ヘブロンに上るための判断(サム下2:1)

・ペリシテ軍征討のための行軍の判断(サム下5:19-23)

・祭司団の組み分け(歴上24:5-6)

・祭司の当番の決定(ルカ1:9)

・使徒マッテヤの選出(使徒1:23-26)

「神が述べる」形式で書かれているところが、実際には神がその文章を音声などの形で伝えたわけではなく、くじ引きの結果の解釈が記録されている例もありそうである。神による自身の意志の表明方法、人間による神の意志の受取方法にはいくつか種類があると思われ、それぞれの違いなども考えてみたい。

【☆ヨナタンとダビデの年の差】

サウルの治世に関する文について、ヘブライ語聖書写本は致命的な欠損があり、この欠落は七十人訳写本の混乱から見ても、非常に早い段階(もしかすると紀元前?)での失伝があったと思われる。
これによって、ヨナタンとダビデの年齢差の推定は難しくなっている。

"サウルは三十歳で王の位につき、二年イスラエルを治めた。"サムエル記上 13:1口語訳
"サウルは王となって一年でイスラエル全体の王となり、二年たったとき、"サムエル記上13:1新共同訳
"サウルは三十歳で王となり、十二年間イスラエルの王であった"サムエル記上13:1新改訳

有力なヘブライ語写本(レニングラード写本・アレッポ写本)はサウルの治世に関する情報を記すサム上13:1が以下のようになっている。

BeN ShaNaH ShAWL BMaLKoW WShTheY(”2”の複数形) ShaNiYM MaLaK AL YSRaEL(イスラエルの上に)

一方、サウルの次代イシュ・ボシェトの治世に関しては以下のようになっている。

BeN ARBaIYM(”40”) ShaNaH IYSh-BoSheTh BeN ShAWL BMaLKoW AL YSRaEL(イスラエルの上に) WShThaYM(”2”の双数形) ShaNiYM MaLaK
"サウルの子イシュ・ボシェトはイスラエルの王となったとき四十(ARBaIYM)歳で、二(ShThaYM)年の間、世を治めた。"サム下2:10

またダビデの治世に関して述べた別の文は以下のようになっている。

BeN ShLoShYM(”30”) ShaNaH DaViD BMaLKoW ARBaIYM(”40”) ShaNaH MaLaK
"ダビデは王となったとき三十(ShLoShYM)歳で、四十(ARBaIYM)年の間、世を治めた。"サムエル記下 5:4

ヘブライ語を単純に読むと、「サウルは◯歳で王となり、」の◯の部分が欠落している文に見える。無理矢理読むと「サウルは一歳で王となり、二年間イスラエルを統治した」と読める。

新共同訳はヘブライ語写本のみを使う主義で訳しているようなので、この箇所のヘブライ語を少々アクロバティックに解釈して「サウルは一年でイスラエルの上に王となり、そして二年統治して、」という翻訳を提案している。

一方口語訳は翻訳が困難な箇所などは七十人訳を参照することも多いため、ここは七十人訳を参照して「サウルは三十歳で王となり二年間イスラエルを統治した」のように訳している。

新改訳でサウルの統治年を十二年としているのは後述のパウロの証言の四十年をサウルの生涯年数と捉えて整合性を取った解釈かもしれない。写本の根拠が薄い。ただし「二年」という表現はShNaThaYMという双数形を取るべきところ、ここでは複数形のShaNiYMで書かれているため、十の位を補って訳すというのは一定の根拠がある。

実はここの七十人訳聖書は一般的に参照されることの多いバチカン写本などでは節自体が完全に欠落している。口語訳が参照しているのは七十人訳の主要な古代校訂版の一つの「ルキアノス型」と呼ばれるテキストと思われる。この校訂版はマソラ本文(ヘブライ語聖書)と近い読みが含まれることが多い。


サウルの治世に関しては使徒パウロによる補足情報があり、これも解釈がより困難となる原因になっている。

旧約聖書は原文も訳文も死海写本を除けば紀元後の写本しかないということもあり、パウロの述べる情報も無碍にはできない。(残念ながら死海写本の該当箇所の断片もない!)

ただここも残念ながら写本に若干の混乱が見られる。

"それらのことが約四百五十年の年月にわたった。その後、神はさばき人たちをおつかわしになり、預言者サムエルの時に及んだ。その時、人々が王を要求したので、神はベニヤミン族の人、キスの子サウロを四十年間、彼らにおつかわしになった。"使徒行伝 13:20-21
"And after that he gave unto them judges about the space of four hundred and fifty years, until Samuel the prophet.And afterward they desired a king: and God gave unto them Saul the son of Cis, a man of the tribe of Benjamin, by the space of forty years." Acts 13:20KJV

KJVが採用している多数派写本では450年間の士師の時代の後で40年間があり、その40年間にはサムエルとサウルの両方の活躍期間が含まれるのか、サムエルは450年の側に入ってサウルが40年間活躍したのかはわからない。
一方で日本語訳が採用する古い少数派写本は450年間の何らかの期間の後に年代の示されない士師の時代がサムエルの代まであり、サウル個人に40年間の期間が割り当てられているように読める。


正典ではないが重要な紀元1世紀の証言としてヨセフスの文書がある。彼の「ユダヤ古代誌」によればサムエルが大祭司エリの死後12年統治し、その後サウルと18年共同統治し[Ant. 6巻13章5節]、サウルはサムエルとの18年の共同統治の後に、サムエルの死後単独で2年間(or 22年間?)統治した[Ant. 6巻14章9節, Ant. 10巻8章4節]とある。


話の整合性的に、サウルが三十歳で王となって二年の統治後に死んで次代のダビデとイシュボシェトが即座に即位するというストーリーはおそらくありえない。ダビデも三十歳で即位しているがサウルの治世に兵役にまだ就けない少年だったはずであることから、サウル王とダビデの出会いからダビデの即位までには十年以上が経過しているはずである。サウルが三十二歳で戦死して四十歳の息子イシュボシェトが王となるのもありえない。新改訳のようにサウルの統治年数を十二年としても、四十二歳でサウルが死んで四十歳の息子が即位するのはほぼありえない。

サウルの治世年数がはっきりわかっていないが、もしわかっていたとしても数え方自体も難しい。サウルの王としての期間は主に六段階に分けることができる。

1.サムエルの油注ぎを受けてからくじ引きにより選出されるまで(普通に考えると統治期間に含まれない)

2.くじ引きに選出されたが、民全体に認められていなかった期間(サム上10:20-27)

3.ナハシュとの戦争の功績により民全体に認められギルガルで王とされてからの期間(サム上11:11-15)

4.アマレクを聖絶しなかったことによりサムエルに王位剥奪を宣告され、サムエルと袂を分かってからの期間(サム上15:24-35)

5.サムエルがダビデに油注ぎ、主の霊がサウルを離れて以降の期間(サム上16:12-14)

6.サムエルの死去以降の期間(サム上25:1)

サウルの統治期間(2年 or 12年 or 22年 or 32年 or 42年 or ...)を1-6のどこからどこまでと考えるかは難しい。「サウルの統治期間」として記された期間の直後にダビデの即位があったとは限らず、例えばサウルが実質上は王であるがサムエル記著者の解釈としては王権の正当性が失われており記録上は空位期間とした期間が存在するなどの可能性はある。


そろそろ手詰まりなので、ヨナタンの年齢がイシュボシェトとそれほど離れていないと仮定し、ヘブライ人は結婚して子を産み始めてから各妻ごとに一年に一人連続的に子供を産んでいくと仮定する。(実際、例えば族長ヤコブの妻レアは七年で七人の子を産んでいる 創31:41, 30:25-26, 29:31-35, 30:14-24)

この仮定ではダビデが30歳で即位した年、つまりイシュボシェトに一つ名前が先立って書かれているヨナタンは一年年長と思われるので死没したのがおよそ41歳となる(ダビデと11歳差)。その際5歳の息子メフィボシェトがいる(サム上4:4)ので、ヨナタンがメフィボシェトを生んだのはおよそ36歳である。

またこの仮定のもとでは、ダビデがゴリヤテを倒したのは、三番目の兄シャンマが20歳で兵役につき始めた年での出来事となるので、さらに三人の兄がいるのでダビデはおそらく16歳ということになる。ダビデの兄弟はサムエル記では八人とあるが、歴代誌では七人であるため、一人は異母兄弟などと思われ、このためダビデの年齢が一年繰り上がる。するとこの年はダビデの即位の14年前ということになり、ヨナタンは27歳である。二人が出会ったのは16歳と27歳の頃ということになる。

ヨナタンはサウルの治世の初期に軍を率いているので20歳以上であるので、サウルの治世初期(上記6段階のうち第3段階以前)からダビデがサウルの前に登場してゴリヤテを倒すまでの猶予期間はこの場合7年以下となっている。(ヨナタンの兵役就任から死去までが21年間である場合)

これらの概算を信じると、サウルの治世”X2”年間がサウルの即位からダビデの即位までの期間を満たす期間であると解釈する場合、22年間と解釈するのが最も自然と思われる。しかしこれだとサウルが30歳で即位したという七十人訳の証言は整合性が取れない。サウルの即位の直後にヨナタンが20歳を越えるためには、サウルの即位はおよそ35歳以上である必要がある。(成人より前に子を産む例は稀であると考えると)

またヨセフスの証言ではサウルの統治期間は18+2年間とあり、もしこれとサウルの統治期間22年説の整合をとろうとするならば、最初の2年間が王として認められていなかった期間(上記6段階のうち2段階目)という可能性もあるかもしれない。

一方もしパウロの証言の一解釈としてサウル単独に四十年の治世を割り当てる場合、これも二年間の一般に認められていない期間のあとで四十年間の統治期間があったと考えることもできる。サム上13の記述はギルガルでの即位の記事とリンクしている(サム上10:8, 11:14)のでサウルの治世の最初期という以外の想定はしにくいため、この場合ヨナタンの死去年齢がおよそ60歳以上になる。この場合ダビデとヨナタンの年齢差は30年ということになる。

個人的には四十年という期間は何らかの形でサムエルの統治期間と合わせた数え方による伝承であると考えた方が自然なように思う。

でもこういう予測は「わからない」としておくことが必要で、ある解釈について「こうに違いない」と思ってしまうと写本を改竄して今日の情報を結果的に攪乱している過去の写字生と同じ轍を踏むことになるので気を付けるべきだろう。

個人的な予想としては、ヨナタンは二十歳そこそこでイスラエル軍を率いて活躍し、二十代後半で十代半ばのダビデと出会い、三十代前半にダビデが兵役について活躍しすぎたことでこれを疎んだサウルとの間に板挟みになるものの、妹ミカルがダビデに嫁ぐことで義理の兄となり、しかしダビデは逃亡を余儀なくされたため離れ離れになり、三十代半ばで女性の妻との間に子を設け、四十代前半に戦死した、という感じだろうとイメージしている。


【☆ヨナタンのダビデへの愛と、聖書における友愛の扱い】

個人的な印象だと、聖書は、男女の伴侶同士の愛を多く語り、同胞間・隣人間の愛も語るが、この私的な性格の愛と少し公的な性格の愛の間にある"友情" ”友愛”のようなもの、伴侶や近親以外の人との一対一、少数、仲間内の親愛関係のようなものについて語っているところは男女間、同性間問わずそれほど多くないような気がする。それでこのヨナタンとダビデの間の友情というのは聖書における友情物語のうち最も際立ったものであると思う。

ただ、「友、相方 ReA」という言葉はヨナタンとダビデの間では「互いに one another」という表現で慣用的(?)に使われているのみで、明確に二人の関係性を「友」と呼ぶ関係はむしろサウルとダビデの間に使われている。日本語訳ではサウルとダビデの間の関係を隣人と訳している(サム上15:28, 28:17)。

よく見ていくと、「友」と訳される言葉と「隣人」と訳される言葉は、ギリシア語ではphilosとplēsiosと区別されているが、ヘブライ語では同じ単語のようだ。やはり伴侶と親兄弟以外は「友人、近所の人、同じ村の人、律法において殺してはならない人、同盟国の人」まで扱いとしてはあまり変わらないのかもしれない。

僕はアガペーが互いの異質性に特徴づけられる他者への愛≒隣人愛、フィリアが互いの同質性に特徴づけられる他者への愛≒友愛、のように考えていたけれど、ヘブライ語において隣人と友という単語の区別がないのは意外だった。この「愛」理解についてはまだ修正が必要な気がする。

具体的な人物たちに「友」の語が使われているのは以下のような人々だった。

・アブラハムやイサクと交渉したアビメレクとアフザテの関係

・族長ユダとアドラム人ヒラの関係(創38:12)

・神のモーセへの語りかけが友に対するようなものだった(出33:11)

・ボアズがレビレート第一権者の親戚を友と呼びかけている(ルツ4:1)

・ダビデとユダの長老たちの関係(サム上30:26)

・ダビデの長子アムノンに入れ知恵したダビデの甥ヨナダブの関係(サム下13:3)

・ダビデとアルキ人フシャイの関係(サム下15:27)

・ナタンの子ザブデとソロモン王の関係(列上4:5)

・ヨブと三人の友(ヨブ2:11)

・イエスのイスカリオテのユダへの呼びかけ(マタイ26:50)

・イエスとラザロの関係(ヨハネ11:11)

・イエスと弟子たちの関係(ヨハネ15:15)

・アブラハムと神の関係(ヤコブ2:23)

僕にとって友人という存在は強い愛着を持ってしまう存在で、「友との関係」というのは、僕のこれまでの人生にとって良くも悪くも最も強い関心事だった(それに次ぐ関心事は「知解を求める信仰」)。そういうこともあって、聖書が友人関係について何を言っているかは気になる。今は、たぶん僕の友たちへのこれまでの愛着は友愛(philia)とはかなり違うものだったのではないかと感じている。ここ数年、色々な転機があって、いくつか経験から学んだことがあったので、聖書からも友愛についてもう一度学びなおしたいと思っている。

イエスは友に関してこう言っている。

”友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。” ヨハネによる福音15:13

ここで「捨てる」と訳される言葉は「ティテーミ(≒置く)」であると聞いた。また、ここで「命」と訳される言葉は「プシュケー(≒魂)」である。

旧約聖書の物語において、友のもとへ自分の魂を渡した代表的人物こそが、サウルの子ヨナタンであると僕は思う。

”ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。”サムエル記上18:1

ヨナタンの魂とダビデの魂が結びついたのではなく、ヨナタンの魂がダビデの魂へと結びついた、となっていることが大事であると思う。この時、ヨナタンの魂は既にダビデに明け渡され切っているので、ダビデの魂を自分の方へと引き寄せる必要がない。もはやヨナタンはダビデから好意、時間、その他どんな贈り物も受け取らずとも、彼と離れ離れでも、身体の位置関係において共に生きることが叶わずとも、自身の魂が常に彼のもとにあることを喜びながら、彼と身体の位置において離れ離れである事自体だけでなく、その他の全ての苦難や悲劇的運命にさえ耐えられただろう。

誰か一人でも、本当に愛することができたなら、自身の全存在で愛し切ることができたなら、自身の身体で境界づけられた孤絶した自己から脱する経験をすることになる。するときっと、全被造物は本当は一つなのだと知ることになるだろう。大抵の愛着は、自己の渇望、欠損を満たすべく、あらゆる搾取を行おうとする。端的に言えば「相手と一緒にいないと寂しい」また「相手にとって自分が特別でないことが寂しい」。この情動の直接的発露を抑圧することにある程度成功したとしても、もっと悪い方向に走って、架空の人物を愛するようになる人さえいる。(このノートのプロフィールアイコンを見ればわかる)

でも自身がこの場所に閉じ込められた存在ではなく、全被造物と一つであると知れたならば、自身のところにある欠乏は他者から奪って満たすべきものではなく、自身を世界に明け渡すことを求めながら、埋めようとせずに、耐えるべきものだということに気づく。ヨナタンはダビデとの関係を通して、自分を殺そうとする父さえ愛する力を得て、自分を悲惨な運命を課してくる世界をも愛し、そして神を愛するようになったと思う。

ヨナタンは名前の通り自身を世界に明け渡す(ナタン)ことを求めたのではないか。死に至るまで、当然得るべきはずの帝王の地位を得られずとも、また人生において何事を成し遂げたようにも見えずとも、もっと全体性の中で、一つの命に生きられるということを、彼はダビデとの、神様からの贈り物のような、奇跡みたいな、出会いを通して、知ったと思う。彼は死を望んで死んだわけではないだろうが、死の瞬間さえも、世界を呪うことなく、父も敵も恨むことなく、愛する人と、神に、「ありがとう」の思いを念じつつ、去っていくことができたのではないだろうか。

"ああ、勇士たちは戦いのさなかに倒れた。ヨナタンは、あなたの高き所で殺された。わが兄弟ヨナタンよ、あなたのためわたしは悲しむ。あなたはわたしにとって、いとも楽しい者であった。あなたがわたしを愛するのは世の常のようでなく、女の愛にもまさっていた。"サムエル記下 1:25

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