[メモ]使徒言行録年代復元(2)ペテロとマルコの宣教活動

上記メモではパウロの宣教旅行の年譜をおおよそ再現した。使徒言行録はパウロに同行したルカの著作であり、また新約聖書の大部分がルカ・パウロによる著作であるため、パウロの活動が最も正確に復元できる一方で、他の使徒らの活動に関しては再現が難しい。しかしわかっていることや伝承からわかる限りで使徒言行録のもう一人の主役ペテロの活動の年譜を再現してみる。また彼と関わりが深い福音記者マルコについてもわかることをまとめる。ここではまずはバルナバのいとこマルコ、ヨハネ・マルコ、福音記者マルコなどヒッポリュトスが分けた人格を同一人物と仮定しておく。もし無理が生じたらこの見解も見直そう。

使徒パウロの年譜からペテロに関連するところを抜き出すとこのようになる。


AD 34±2(AD 35?) パウロとペテロの邂逅@エルサレム[使徒 9:26-28]

    使徒9:32-11:18の記事(リダでの活動、コルネリウスの洗礼)はこの時にペテロからパウロに継がれた証言と思われ、パウロの回心後の出来事と思われる。

    ステファノの殉教以降、パウロの回心以前の出来事として、ペテロと福音宣教者フィリポの活動が使徒8:4-40に記されている。これらの出来事もパウロとペテロの邂逅時に継がれた証言の可能性もあるが、フィリポの記述が主体かつ始まりと終わりを挟んでいるため、証言者がフィリポの可能性もある。この場合、ルカとパウロがカイサリアを訪れる使徒21章の出来事の頃にフィリポから継がれた証言が主体となっている可能性もある。この証言によるとペテロはステファノの殉教後、ヨハネと共にサマリア宣教をしてエルサレムに帰ったらしい。

    さらにステファノの殉教以前については、ペンテコステの説教[使徒2章]、エルサレムでの活動[使徒 3:1-5:42]があったことがわかる。


AD 44春 ヘロデ・アグリッパの迫害、ペテロ投獄・解放[使徒 12章]

    この記事はクラウディウス帝期の飢饉に際してアンティオケアからエルサレムに来た派遣されたパウロがエルサレム教会の人物から継いだ証言と思われる(この時パウロらはヨハネ・マルコをエルサレムからアンティオケアに連れていっており、使徒会議前の宣教旅行に随行させる。パンフィリアでマルコは離脱しエルサレムに戻る)。ペテロは牢獄から解放されたことを告げると「そこを出て他のところに行った」とあり、捕縛される危険のあるエルサレムからこのまま離脱した可能性もある。(エルサレムに留まった可能性もある。)

AD 48.5±2.5(AD 49初春-夏?) 使徒会議@エルサレム

    使徒会議ではペテロが発言している[使徒 15:7-14]ため、ペテロはこの時エルサレムにいたことがわかる。赴任地から帰ってきたのか、ずっとそこにいたのかは不明。

この後、パウロがエルサレムに行った時も、ローマに行った時も、ペテロに関しては触れられておらず、またローマ書簡でもペテロへの挨拶がないため、これ以上の情報はあまりない。ローマ書簡執筆時もペテロはローマにおらず、コロサイ書執筆時もペテロがローマにいないとすると、ペテロのローマ宣教は長期間留まってのものではなく、別のところの宣教も多くしていた可能性が高い。

ガラテヤ書によればバルナバとパウロがアンティオケアにいた頃にペテロ(ケファ)がアンティオケアを訪問し、ヤコブから派遣された人々に迎合しようとしてパウロに詰られたらしい。[ガラテヤ 2:11] 2章の流れからするとこれは使徒会議前後のことのようで、使徒会議前後以降にパウロがアンティオケアにいたのは使徒会議前後[使徒 15:30-41]と、エフェソ宣教の合間の短期間[使徒 18:19-23]が言及されている。バルナバと一緒にいたことを考えると、バルナバとパウロが決裂する前の、使徒会議前後の頃にペテロがアンティオケアに滞在したと思われる。「ヤコブのもとからある人々が来る[ガラテヤ1:12]」という記述を「ある人々がユダヤから下って来て[使徒 15:1]」と同じ出来事と解釈するなら、このペテロへのパウロの叱責は使徒会議のきっかけとなった論争[使徒 15:2]の一場面かもしれない。使徒会議後の宣教旅行ではパウロとバルナバの宣教団は分離し、ヨハネ・マルコとバルナバはキプロスへ赴いている。

また、ペテロの手紙第一はポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに向けて書かれており、これらの地域の離散ユダヤ人に対してペテロは宣教したと思われる。[1ペテロ 1:1] この時シルワノが筆記しており、マルコと共におり、バビロンにいると発言している。[1ペテロ 5:12-13]このバビロンとは、西方教会では一般的にローマの暗喩であると解釈されている。一方で東シリア教会などでは、実際のバビロニアのバビロンであると解釈されている。

「パウロとバルナバは異邦人へ、ヤコブとケファとヨハネが割礼を受けた人々のところへ」[ガラテヤ 2:9]と使徒会議後に合意したことから考えて、バビロン捕囚以降のユダヤ人の最大拠点の一つであるバビロンにペテロが向かった可能性は十分あると思われる。

使徒行伝28章でパウロに対してローマのユダヤ人たちが「あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです」と発言していることを考えると、パウロのローマ到着時点で割礼を受けた者たちに対する宣教はあまり十分になされてきていなかったとも思える。このことからも、ペテロによるネロ帝期以前のローマ宣教は、あったとしても非常に短期間であったと思われ、むしろ書簡の送り先であるアナトリア北部がペテロの主な活動地であったことが予想される。


さらにコリント人への手紙第一の1章は「ケファにつく」と言っている派閥がコリントにあったように読めるため、ペテロはギリシア伝道も行っていた可能性がある。(小アジアからローマに行く間にギリシアを通過するのは自然。ただしコリント市はかなり南なので、海路を挟んだと思われる。)


ここからは伝承による情報に完全に依存することになる。

まず、アンティオケアの司教職はペテロにその起源が帰せられる。第二代(ペテロが長期間実質的に司教職にあったとは考えにくいので実質の第一代)司教エヴォディウスはAD 66にネロ帝の迫害下で殉教するまで27年間司教職を務めたとの情報がある。

司教職の継承は按手礼によって為されるため、ペテロはエヴォディウスが司教職に任じられたAD 39にアンティオケアにいた可能性が高く、またこの年がアンティオケア教会の設立年とも近いと思われる。これはヘロデ・アグリッパの迫害の5年前であってパテロはパレスチナを中心に活動していた頃と思われ、パウロがペテロらと会った後にタルソスに退いていた頃の出来事と思われる。


また、ペテロはローマで活動したという伝承は西方で非常に強い。エウセビオスによればペテロのローマ宣教はクラウディウス帝の統治下(在 AD 41-54)に為されたとされる。

次の章によればローマでペテロの承認のもとでマルコによる福音書が著されたとされ、その後マルコはアレクサンドリアに赴いたとされている。使徒言行録によればクラウディウスのユダヤ人追放令(AD 49)でアキラとプリスキラがローマからコリントに退去しており[使徒 18:1-2]、AD 49以前にローマ教会が設立されていた可能性が高い(それがペテロによるものとは限らないが)。パウロはAD 50s半ばにローマに書簡を送っているが、内容からパウロ以外の人物による設立であることが伺える。

ヒエロニムスはクラウディウス帝の治世第2年(AD 42/43)にペテロがローマ宣教を始めたとしている(De viris illustribus, i) しかしこれはヘロデ・アグリッパが在位中であるため、ペテロの投獄がアグリッパの死去年(AD 44)のことであると解釈するならば、少なくともクラウディウスの第2年からの宣教は一時的なものでまたパレスチナに帰ってきたということになる。

ラクタンティウスはペテロのローマ到来をネロ帝の頃としている。(『迫害者たちの死に方』2章)

「クラウディウス帝の頃」と「ネロ帝の頃」の二つの説を両方とも受け入れるとすれば、ペテロはローマにずっといたわけではないかもしれない。そもそも、クラウディウス帝のユダヤ人追放令はペテロもその対象者であるから、AD 49以降しばらくペテロがローマにいることは難しかったかもしれない。


マルコのアレクサンドリア宣教に関しては、アレクサンドリア教会の系譜であるコプト教会の伝承も参考になる。コプト教会の歴史を中世のSeverus of Al'Ashmuneinがまとめたものによると、マルコのアレクサンドリア宣教開始は主の昇天後15年目のこととされている。

主の昇天がAD 32であるとするとマルコのアレクサンドリア宣教開始はAD 47前後ということになる。

さらにこの資料によるとマルコの次の司教Annianusはドミティアヌスの治世第2年(AD 82/83?)まで22年間司教を務めたとある。

一方エウセビオスはAnnianusはドミティアヌスの治世第4年(AD 84/85?)まで22年間司教を務めたとしている。これらの記録からすると、マルコの司教職がAnnianusに継がれたのはAD 60-63頃と思われる。エウセビオスはネロの治世第8年にAnnianusが司教職を継いだとしており、これはAD 61/62にあたる。

ヒエロニムスは司教の交代年をマルコの死去年と見なしているらしい("De Vir. Illustr.", viii)が、第二テモテやコロサイ書に登場するマルコを福音記者とみなすならば、第二テモテやコロサイ書はAD 60年代にローマで書かれたと思われるため、マルコはAnnianusを任じてアレクサンドリアを離れた後でまたパウロと合流した可能性もある(逆もあり得る)。マルコはコプト教会の伝承ではAD 68にアレクサンドリア近郊で殉教したことになっている。

マルコについて他に北イタリアのアクイレイアを宣教したという伝承がある。これはアレクサンドリアに赴く前の出来事とされている。



さて、ペテロがネロ帝の迫害下にローマで殉教したということも広く信じられている。

ペテロの死去年はローマ大火が起こるAD 64からネロが死去するAD 68の間のどこかである。


他に、シチリア島シラクサの司教座もその起源がペテロに帰されており、アンティオケアの次にペテロが設立したものとされているらしい。



まとめるとこうなる。ただしヒエロニムスのAD 42-ローマ宣教開始との見解を採用せず、ヘロデ・アグリッパの迫害AD 44以降、クラウディウス勅令AD 49以前のうちのある短期間にローマ宣教がなされたと仮定する。()内は推測をさらに多く含んだ年号。


AD 29 - 33 イエスの昇天

 ペテロ、ヨハネと共にエルサレムを中心に活動

・ステファノの殉教

 ペテロ、ヨハネと共に福音宣教者フィリポが活動中のサマリアで活動

・パウロの回心(AD 32?)

 ペテロ、リダやヤッファなどパレスチナ南部で活動。コルネリウスの洗礼

AD 34±2(AD 35?)  ペテロ、パウロと共に過ごす[使徒 9:26-28]

 ペテロ、アンティオケア教会設立?

AD 39? ペテロ、アンティオケアで第一代司教エヴォディウスを叙階

AD 44春 ヘロデ・アグリッパの迫害、ペテロ投獄・解放[使徒 12章]

 ペテロ、ポントス・ガラテヤ・アジア・ビティニアを宣教?

 マルコ、飢饉(c. AD 46?)に際してエルサレム支援のためアンティオケアから来たパウロとバルナバに連れられてアンティオケアへ。

 (AD 47?)マルコ、パウロとバルナバのキプロス宣教などに従う

 マルコ、パンフィリアで宣教旅行を離脱してエルサレムへ帰る

 マルコ、ペテロのもとへ行く?

 ペテロとマルコ、ローマ宣教?

 マルコ、ローマで『マルコによる福音書』を執筆?

AD 47? マルコ、アレクサンドリア宣教を開始

AD 49? ペテロ、クラウディウス勅令によりイタリア離脱?

 ペテロ、アンティオケアに滞在?[ガラテヤ書2章]

 使徒会議(ペテロ、パウロ、バルナバ、シラスなどが出席。おそらくマルコも出席。)

 パウロとバルナバ決裂。マルコ、バルナバと共にキプロスへ

AD 50初? パウロのコリント宣教開始(ペテロ、マルコ、バルナバに加えて、このころからシラスも使徒行伝に登場しなくなる)

  ペテロ、マルコ、シルワノによる”バビロン”伝道、ペテロの第一の手紙執筆?

AD 50-60 (「ヨハネ・マルコ」=「バルナバのいとこのマルコ」ならば、この期間にパウロによるマルコの評価が改善される出来事が何かあったはず。)

AD 58頃 パウロのローマ到達

 パウロ、第2テモテ書簡でマルコを呼び出す?

AD 62? マルコ、アレクサンドリア司教Annianusを叙階

    マルコ、テモテと共にローマへ

AD 63? パウロ、テモテとコロサイ書を共同執筆?

AD 64 ローマ大火

ペテロとパウロ、ローマで殉教死

AD 68? マルコ、アレクサンドリア近郊で殉教死

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makojosiah

独自研究メモ

聖書を読んでて気づいたことや調べたこと、また教会の兄弟と議論したことのメモ。聖句引用は多くの場合は口語訳より。
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