見出し画像

「あなたは幸せだね」と言うことの暴力性

幸せはリアルタイムでは感じられない。
「あの時は幸せだった」
と、(たとえほんの数秒前でも)過去のことでなければ
幸せを実感することはできない構造になっている。

この構造を履き違えると、
「あなたは幸せだね」
という暴力的な発言をしてしまう羽目になる。

「幸せ」をリアルタイムで感じている時は、総じて「幸せでない」時だ。
本当に幸せな状態にある時、
その人は「幸せ」のことなど少しも脳裏をよぎらない。
少し思い出してみて欲しい。
幸福の真っ只中にある時、ふと我に返ることすらないまま「幸せ」だと感じることなどできるだろうか?

何かに没頭している時。
我を忘れて満ち足りている時。
ありとあらゆる悩みから解放されて無心でいる時。
豊かな関係性を実感して感動で胸いっぱいの時。
そんな時に、ほんの一瞬だけ我に返って「幸せ」を実感することもあるだろうけど、
その瞬間は醒めていて、「幸せ」から一歩離れて客観視しているのだ。

「あなたは幸せだ」という事実認識を植え付けられた場合は、どうか。
我に返って実感するようなプロセスを経ることもないまま
日常的に「私は幸せなんだ」と自己洗脳するようになってしまう。
自覚的には「幸せ」かもしれないが、これでは本当に幸せとは言えない。

幸せの感じかたは、さまざま。人それぞれ。
本人が幸せを感じているかどうかは、その人以外には知る由もない。
せいぜい知ることができるのは、
過去の事例を集めて、「多くの人々が幸せを実感した時」についての知識でしかない。
それが、目の前の相手に当てはまるかどうかは永遠にわからない。

「幸せ」という概念が具体的になることはない。
抽象的な概念は、抽象的に扱う必要がある、と私は思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?