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はなもりまことという名前


「花盛まこと」という芸名はfemtoに入る時につけた。それまでは本名で主に舞台で俳優として活動していたがこれを機にカッコいい芸名でもつけちゃおうかなくらいの簡単さで芸名にすることを決めたものの、一向に決まらなかった。

そのころ私は大学4年。就活で大コケし1月から就活していたのに9月になっても内定が出ず、焦っていた時期だった。

私の大学の専攻は仏教思想だった。選考分野はインド思想や中国哲学もコース選択時に選べたが、いちばん身近に感じた仏教を選んだ。
その勉強の過程ではエラいお坊さんが残した有り難くて偉大なお言葉を読む機会が多かった。それらの言葉や考え方は奥深くて素晴らしいもので、3年までの私はそれらの言葉を丁寧に読み込んで心に落とし込んでいたが、社会、ひいてはこの世界に居場所がなくなるかもしれないとすら考え焦り目の前しか見えていなかった当時の私には
「うるせーこんちきしょーきれいごとばっかしいいやがってこの世捨て人どもめ」
くらいの効き目になっていた。

就活では大学2.3年がほとんどコロナ禍で、いわゆる大学生らしい大学生活が送れなかったことや、これは個人的な問題だが短期アルバイトを転々としていたことなどが災いしいわゆるテッパンの「ガクチカ(学生時代に力を入れたこと)」が面接で言えなかった。
たとえばサークルでこんな活動をしたとか、ゼミでグループワークに貢献したとか、アルバイトで頼られたエピソードとかの自己PRだ。

私の持ちネタはコロナ禍で動けなかった頃に役者を志して自分でお金を工面して養成所に通ったことや、大学生として勉強しながら、お金をいただいてお客様に観ていただく劇場で役者として活動したことだった。

その頃は役者の道は諦めるつもりでいて、社会人演劇で趣味として続けていけたら良いな、と思っていたのだが、会社側はそう捉えてはくれなかった。伝えたところで信じてもらえなかったし、それらのエピソードは責任感や設定した目標に対する行動力の強さなどのアピールのつもりが見事に逆効果を発揮して、面接の時に繰り返し
「本当に夢は諦めたのですか?」
「もう辞めるのですか?」
と聞かれた。

「大学生のうちにある程度先が見えなければ就職すると最初から決めていました」
嘘はない。嘘はないが、その度に、胸がチクチクして、苦しかった。
「本当に?」
重ねて聞かれた。
ガクチカとかいう割に目標意識がたいして高くなかったと思われているのか。
だったらこうだ。

「でも、いつかまた挑戦したいです」

こっちが本音。だがこれではいつかは会社を辞めると言っているも同然、論外だ。

かといって、

「はい、辞めます。これからは同じように会社員をしていて趣味として演劇を愛する人たちと一緒に、土日に楽しむ趣味として」

こう言っても怪訝な顔をされる。
役者を目指す夢追い人 は想像できても
趣味・演劇 というのは多くの人にとって想像ができず、理解されないということを就活を通して知った。

志望動機と演劇などの芸能活動の経験が絡み合っていることが多かったので、完全に切って離すことは難しかった。

だんだんと面接では芸能活動の過去のことは隠すようになって、志望動機は本物とは違うことを話した。
本当に力を入れて頑張っていたことなのに、本物の「学生時代に力を入れたこと」が完全に「黒歴史」になった。
大学2.3年の頃の過ごし方を聞かれても言葉を濁すほかなくなった。

役作りをするときのように、存在しない二年間を具体的に、緻密に、綿密に作り上げてそれを喋った。

そうして虚像で固めた面接で一社だけ内定が出た。
辞退した。

それは私ではない、と思った。
ごまかしと嘘で固めた面接は苦しくて、就活自体が嫌になった。
これからどうしようかなと考えるたび憂鬱で、割と本気で「人生、詰んだ」と思いつめていた。
そんなときにfemtoの募集を知った。
これしかない、と強く思った。
そのあとfemto公式にdmしてから面談までの流れは割愛するが、なんとかfemto専属にしていただくことが決まり、芸名をつけることにした。

色々考えているうちに『風姿花伝』の一節が思い浮かんだ。
能の真髄を書いた本とされているが、能と仏教の関連性は深く、この本にも仏教思想がふんだんに取り込まれている。
卒論のテーマに日本の芸能と仏教を据えようとしていたのでその一環で風姿花伝も読んでいた。
その中に、こんな一節があってオーディションに受からない自分を鼓舞していたのを思い出した。

時分の花をまことの花と知る心が、
まことの花になほ遠ざかる心なり。

時分の花、というのは若さや流行り、物珍しさから来る一時的な人気のことで、観阿弥自身が少年時代将軍に寵愛されたにも関わらず、のちに島流しにまであった実体験からもきている言葉らしい。
まことの花、というのは流行などに左右されない本物だ。
年を重ねても枯れることはなく、若者には若者の、壮年には壮年の、老人には老人の、それぞれの花がある。必ずしも表面的な人気と比例するものではないが、やはり「まことの花」を持つ者は素晴らしい表現者で、素晴らしい作品を作るにはそんな人間が必要なのだという。

芸能の世界の「若い」は短いもので、可愛くて綺麗な10代の半ばの子らがゴロゴロいる世界に、23歳は決して若くない。
「時節の花」は咲かせたくても難しいし、何より一瞬で散ってしまうのでは意味がない。
ならば今から「まことの花」を育てたいと思った。
これから時を経て30代、40代と年を重ねても、必要とされる表現者になりたい。
間違えてしまっても誤りに対して誠実に。
これ以上自分を偽らない。

そう思って芸名をつけた。

いつかは、まことの花を盛りに。

花盛まこと

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