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最後の最後で臨死体験の話が出て来た。しかし、それは死後の裁きとフリーダムな輪廻転生がある、インド哲学に近いものであり、近代スピリチュアリズムとはかなり相違点がある。

その前にまず、魂は不滅であることを論証で証明するのであるが、これに問題がある。

というのも、どんな物質に悪が加えられても、それが消滅することはない。たとえば、石に打撃を加えて破壊しても、欠片が永遠に残るのであり、消滅するのではない。だから、魂もどんな悪が加えられても消滅はしない、だから不滅だというのである。

しかし、デカルトが物心二元論を唱えてから、物質と心(魂)は別の法則に従うのであり、物質がどうだから魂はどうなるという論法は通用しないのが現代なのである。

物質が不滅だから魂が不滅で、死後の世界はあることにはならないのだ。そんなことだったら、この問題にはとっくに決着がついているはずなのだ。

次に、仮死状態で12日間いて、蘇った男の臨死体験が語られる。

死後の世界には裁判官がいて、生前の罪人は相応の地獄に送られる。善人は天国に行く。そして、生まれ変わる時には、与えられた選択肢の中から、自分の好きな境涯の人生、または様々な動物の中から自由に選んで転生出来る。

この臨死体験者は死後の世界でそれを教えられて戻って来たという。

愛に満ちた世界だったとは一言も言っていない。

この考え方は、日本に従来からある、仏教と道教が習合した閻魔大王の概念であり、輪廻転生の在り方もフリーダムである。

近年のスピリチュアル界隈では、自分より霊性の劣る人生や動物に再生することは絶対にないとされており、この臨死体験はそれと全く違っている。選択した人生が不幸なものだったくらいなら霊性相応かもしれないが、動物に再生となると、絶対にない。霊性の高まりによって宇宙人に再生することはある。

死後の裁きはスウェーデンボルグあたりではまだ顕著であるが、マイヤーズ通信あたりでは自分の好む境涯に自動的に赴くとなっており、江原啓之では、自分で自分を裁くと言っている。

もっとも、スウェーデンボルグであっても、裁きの指導者は自分を常日頃から指導している守護霊の一種とするなら、自分で自分を裁く、自分の好む境涯に自動的に赴くのも皆、同じことを別の切り口で言っているに過ぎない。というのも守護霊は自分の過去生のうち高まった霊性の部分だからだ。

アニータ・ムアジャーニがそれをワンネスと言っているのも、自分に相対する霊はすべて自分自身だからだ。それを考えると、裁きの指導者も自分自身なのであり、自分の好む境涯に自動的に行くとも、自分で自分を裁くとも言えるのだ。

しかし、従来の閻魔大王の概念は、『国家』を持ち出したエベン・アレグザンダーにすらない。エベンは、気づいたら暗い階層にいて、明るい階層へと旅したのだ。そこに閻魔大王の介在する余地はない。

私は今、アニータ・ムアジャーニを支持していて、死後の裁きはないと思う。犯罪者が犯罪を犯すのは本人のせいではない。犯罪者は相応の不幸を背負った哀れな者である。犯罪者が犯罪を犯すのは、不幸な経験のせいであり、本性がそうだったとしても、それは脳を形成する遺伝子のせいだ。

アニータの提唱する自己肯定感の強調は、臨床心理学における種々の人格障害の治癒法と一致しているのであり、これほど有用な霊的世界観はないと思う。

そこで、現世の裁判制度に似たような、プラトンの持ちだした臨死体験は、近頃のスピリチュアル界隈から見たら、単なるデマのように見える。臨死体験はあったのかもしれないが、何か従来の来世観で捻じ曲がって伝えられていると思われる。

そういうわけで、今、有用な知識のために古文書を持ち出す意味はあまりなかったかもしれない。もっとも、プラトンの概念についての理解力は深まったので、教養力はアップしたのかもしれないが。

面白いとしたら、元々道教だったと思われる閻魔大王の概念、そして霊性の関係ない、インド哲学のような輪廻転生の概念が、プラトン哲学の中に共通してあったということくらいだ。つまり、この概念は東洋のみならず西洋でも同じであり、グローバルな概念だったのである。

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