見出し画像

バトンを次に渡すにしても。。。

新約聖書を読んでると、「世界の終わりが近い」という切迫感の感じ具合に、けっこうバリエーションがあるなあ、と気づかされる。

いちばん切迫感が立っている箇所では、明日にも戻ってきそうな感じだ *¹。

別の個所では、再臨が遅れている説明として、神にとって1日は1000年、1000年は1日だから、じっくり構えよう、みたいな感じ。この論法だと、3日遅れたら、すぐ3000年経過!ということになっちゃう *²。

新約聖書におさめられている手紙の大部分を書いたパウロは、彼自身が生きてるあいだに、イエスの再臨を目撃するであろうことを期待していた様子が伺える *³。

ところが、そうならなかった。。。使徒言行録を見ると、エルサレムで騒乱罪の罪状で訴えられたパウロは、皇帝に上訴するためにローマまで護送され、そこで自宅軟禁に近い生活を2年間すごしながら、彼のもとを訪れる人々に自由に福音を伝えていた、という記述で締めくくられている *⁴。そのあとパウロがどうなったか、不思議なことに新約聖書は沈黙しているんだけど、聖書外の伝承によれば、皇帝ネロによるクリスチャンへの迫害の際に、斬首刑で死んだ、と伝えられてる。

死期が近いのを知ってか、知らずか、パウロは晩年に、自分の後継者と目する若者たち、テモテとテトスに、「あとをよろしく!」みたいな感じで、細かい指示を書き送っている。

今日の聖書の言葉。

あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。
テモテへの手紙二 2:15 新共同訳

自分が生きているあいだにイエスが再臨して、それで自分の仕事は完結、と目算していたら、まあ、後継者の育成とか、教会共同体の存続とか、あんまり考える必要はなかったんだろうなあ、と思う。

ところが、ことによったら、再臨はすぐには起きないかもしれないし、自分が死んだあと、かなりの期間、教会共同体が存続することになるかもしれない。。。と考え始めたら、どうしても後継者を育成しなきゃ、という考えにシフトするよね。

ほかの手紙でのパウロの筆の運びは、どっちかというと、キリストにあってわたしたちは自由! 聖霊さまのみちびきで生きていれば、クリスチャンにふさわしい歩みができるから、自由を踏み違える心配はない! 批判されても恐れるな! みたく、大きく構えた感じだけど、テモテとテトスへの手紙には、品位、ルール、世間の評判、教会共同体の仕組みを大切にせよ、若いからといって見くびられちゃだめだ、神学論争は禁止な、あと、胃腸の健康に気を付けろ、聖書の朗読の練習も怠るなよ、みたいなことが、けっこう細かく書いてある。

筆の運びが、ほかの手紙と違うから、あれ?これ別人が書いたんじゃね?と考える聖書学者もいるぐらいだけど、自分はそうは考えない。これはね、パウロが晩年に至って「後継者育成目的」で書く必要があったから、パウロの目線が、切迫再臨という短期視点から、教会共同体の存続という長期視点に、切り替わったためだ、と考えれば、説明がつくと思う。

後継者育成というタスクと、教会共同体の存続というタスクは、不可分一体で、同じコインの裏と表の関係だ。後継者が、福音を語ることによって、教会共同体は形成され、また、教会共同体の中で、後継者は生まれ育ち・訓練され・成長し・洗練されるわけだから。

もちろんねー。。。試験官である「神」が、常に試験会場に陣どって、面接で適性判定してくれるんなら助かるけど、残念ながら、いま、神は世界の後背にお隠れになっておられる。。。なので、後継者が適格者と認められるための判定は、「神」に代わって教会共同体が行うことになるんだ。なんと恐ろしく重い務めであることか。。。

それにしても、教会共同体がそういう判定を行えるためには、後継者が、教会共同体の一員として、祈りと生活を共にしている、という大前提が要るわけだよねー。

いま、コロナ禍で、教会は物理的集会からオンラインへ移行しつつある。これはキリスト教の歴史におけるエポックメーキングなできごとだ。

で、じゃあ、Zoomによる礼拝の小割り画面でつたえられる顔と声だけで、後継者の適格性の判定を、できるのか、というと。。。これは、どうしたらいいのか、まったく思いつかないのが、正直なところだ。

どうするんですか、主よ。。。

註)
*1.  Cf. フィリピ 4:5
*2.  Cf. ペトロ二 3:8-9
*3.  Cf. テサロニケ一 4:17
*4.  Cf. 使徒言行録 28:30-31


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?