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社会的隔離と、心の渇望と

このコロナ禍で、物理的な礼拝を中止した教会が、たくさんある。代替案として、YouTubeやFacebook Liveなどを活用して、礼拝のオンライン配信をしてるところも、けっこうある。視聴者目線に立てば、いろんな教会の礼拝のテイストの違いを、たのしめるという、興味深い機会では、あるよね。

自分的には、カトリック関口教会のミサで先唱者をつとめる、あるひとりのシスターの天使のような美しい声に、すっかり魅了されてしまっている。

けれど、まあ、やっぱり、リアルな礼拝とは、なんだか、ちがうよね。なにが違うのか、うまく言語化できないので、おそらく、非言語的な要素があるんだと思う。霊? 臨在? サイレント・ランゲージ?

なので、きっと、物理的に集まる礼拝に対する渇望感を、多くのクリスチャンが経験していると思う。

クリスチャンにとって、信仰の仲間と一緒に祈る、声をあわせて歌う、語り合う、愛餐や聖餐のときを持つ、というのは、かげがえのないことだ。

だけど、いまは、ひとり、ひとり、それぞれの場所で、神に向き合う時間を過ごすことが、求められている。みんなに会いたいなあ、という渇望感の中での、この言葉。。。

今日の聖書の言葉。

わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。
ヨハネによる福音書 7:38 新共同訳

わたしたちは、渇望をみたしてくれる「何か」を、自分の外側に求めて行く。だって「何か」は、いつだって、外部からしか、やってこないんだから。

しかし、渇望をかかえた自分は、いま、外側から隔離されている。このコロナ禍による社会的隔離の状況は、あらためて「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」というイエスの言葉の意味を、受け取り直す機会なんだと思う。

イエスと結ばれているとき、わたしたちの渇望をみたしてくれる「何か」が、内側から、あふれ出て来る、というんだから、このイエスの約束は、すごい。

もちろん、自分の内側には、そういう「何か」を生み出す力は、本来的には無いんだけれど、でも、わたしたちがイエスを救い主として受け入れるとき、イエスは文字通りの意味で、わたしたちの存在のなかに入ってきてくれる。神学的にはこれを、内住のイエス、と言うんだけど、そのイエスは神だから、リソースとしては、無限だ。

リソースが無限って、ヤバイ(良い意味で)よね。。。

ほんとうに、これを、文字通りのこととして、理解し受け入れることができれば、どんなに良いことか。。。わたしたちの狭量な常識が、それを拒ませる。だけど、イエスが言っているんだから、信じてみよう。

今日、自分の内側には、イエスが内住していて、渇望をいやすこのできる「何か」が、自分の内側から、無限にあふれ出て来る。その何かは、小さな自分を超えて、外側の世界にまで流れて行って、それは世界の渇望すら、いやすことができる。

その何かとは、いのち、だ。

それを、もう一度信じてみよう。


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