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即興で喋りながら絶対失言しないチャレンジ。。。

ひとに不快感を与えることを言ったり書いたりしないように心がけている。。。つもり。。。だけど。。。過去にはどうにも立場的に引けなくて、いわゆる炎上、と言うか、大炎上を経験したことがある。二度と繰り返したくないトラウマだ。

基本、自分が聞いてて不快だなあと感じたことは、ひとにも言わないようにしてる。悪口、陰口、批判、下ネタ、グロ、うそ話、自慢話、武勇伝、上から目線のお説教。。。

でも、あんまり慇懃無礼に話すのもダメだよなと思う。だから、丁寧語と口語とタメ口のベストコンビネーションは、どれぐらいの配分比率かって考える。場やタイミングによっても配分は変わるよね。

今日の聖書の言葉。

いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。
コロサイの信徒への手紙 4:6 新共同訳

この聖句を読んで思うのは、快い言葉というのはなんとなく想像できるんだけど、「塩で味付けられた言葉」っていうのは、どんなだろう、と思う。

このギモンを解くために、注解書をひもといてみた。

『ギリシャ語聖書注解』(Expositor's Greek Testament)には「古典時代の作家は『塩』を機智に富んだ会話という意味で用いた」とある。ほかの注解書も、おおむね同様の見解。

「機智」って、その場に応じてとっさに働く鋭い知恵、ウイットのことだ。

なので、あらかじめ原稿を書いて用意しておくようなものではなく、当意即妙に出る言葉、という感じだねー。

イエス・キリストが語った言葉が福音書に収められているけど、どこを見ても、イエスが原稿を手にスピーチした、というふうには書かれていない。おそらくイエスはすべて即興で語ったのだと思われる。

まさか、もしかして、筋書き無し、打ち合わせ無し、練習無し、用意無し、出たとこ勝負でイエスは語っていたのだろうか。。。

何を喋るか全然用意しないで口を開いた場合、いったいどんな言葉が自分の口から出て来るんだろう。。。イエスだから上手く行ったんだろうけど。。。なにせ、イエスは神の言葉だからね。。。

自分だったら機智どころか、とんでもない失言をしてしまうんじゃないか、と怖くなる。言葉が出た瞬間、しまった、と思っても、取り返しがつかないもん。。。

やっぱり、ふだんから、自分の内側にある、怒り、恨み、フラストレーション、差別、偏見、思い違い、考え違い、心のゆがみを、ぜーんぶ浄化しておかないと、怖くて即興ではしゃべれないよなー、と思う。

だから、自分を正直に見つめるしかないよね。そして、おかしなところ、間違っているところは、悔い改めて、イエスさまに許していただいて、軌道修正するしかない。

でも、そういう作業を重ねた結果、そぎ落とされ、青白くなり、エネルギーを失って、何を言われても機転は利かないし、返す言葉も出て来ない、というんじゃ問題なわけであって。。。

元気いっぱいに会話しながら、ぜんぜん失言しないというチャレンジ。。。やっぱりイエスさまじゃないとできないのかな。

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