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救世軍による金管楽器製作所

1880年代と90年代に、救世軍は創立者ウイリアム・ブースの指導のもとで、様々な分野の工房を開設した。マッチ工場、ブラシ工場、カゴ工房、家具工房、ブリキ工房、タンバリン工房、曲物工房、マットレス工房、パン工房、椅子工房、看板製作、洋服仕立、そのほかである。当然ながら、金管楽器工房も開設されることとなった。

1884年ごろより、ロンドンの救世軍商業部は他社製金管楽器を取り扱うようになった。その広告が、1884年の『救世軍チューンブック』初版に掲載されている。1880年代末までに、救世軍は英国内だけで400の金管バンドを保有するようになり、楽器修理工房の需要が存在した。これを受け、救世軍商業部長官のジョン・カールトン中将は、修理工房をロンドンに開設することを提案し、商業部の一部門として1889年に開設された。場所は、ロンドンのサザック街96番地にあった救世軍万国本営の地下の一室であった。修理工房は二人の熟練した真鍮職人と一人の見習工で始められた。当時16歳の見習工であったジャック・ファーネスは、後に工房長となり、セントオルバン小隊バンドの楽長となった。1889年に修理工房が開設されてから、救世軍が楽器の製造にも取り組むようになって行ったのは、自然の成り行きであった。1890年に出版された『救世軍チューンブック』第二版には、商業部で取り扱っている救世軍製の楽器の広告に一頁が当てられている。これら第一号の楽器は、救世軍の工房で造った部品と、他社から購入した部品とを、組み立てたものであった。1893年に、完全に救世軍の工房だけで造られた楽器が製作され、誇りを込めて「救世軍オリジナル」と呼ばれた。ビジネスの観点から見ると、救世軍製の楽器は短期間で非常な成功を収めた。発展したのは、ブース大将が『軍令及び軍律 戦場士官の巻』において、「すべての救世軍バンドは、救世軍製の楽器を購入すべきこと」と求めたことによる。楽器の注文が殺到し、製造量が増大したので、1894年には職人を17人に増し、その10年後には、60人になっていた。

1890年代の救世軍楽器工房の職人たち

1890年から96年まで、救世軍商業部と楽器工房はロンドンのクラークンウェル街98番地、100番地、102番地にあった。1896年にフォートレス街81番地に移転し、そこで1901年まで楽器製造が行われた。この「フォートレス街時代」に製造された楽器には、朝顔の部分に住所が刻印されている。少数ながら今もこの頃の楽器が残存しており、Eフラット・ベースがインターネットのオンライン・オークション「イー・ベイ」に出品されたことがある。

1901年に、救世軍はロンドン郊外の北部、セントオルバンに楽器製作所を開設した。この製作所は「キャンプフィールド楽器製作所」と呼ばれ、その近くには、2001年まで稼業していた救世軍の印刷工場「キャンプフィールド印刷所」があった。

キャンプフィールド楽器製作所では、初期のポケットコルネットから、Gトロンボーンを含む、すべての金管楽器が造られた。それだけでなく、独自の特許によりEフラット・バストロンボーンを製作した。これは、前に動くスライドと、後ろに動くスライドが、リールと滑車の機構で連動する仕掛けになっていた。1909年から1922年の間に、英国の救世軍バンドでサキソフォーンを使い始めるところがあった。救世軍の楽器製作所では、サキソフォーンは製作されなかったが、小さい小隊バンドや青少年バンドのために、価格の低い楽器を造る試みがなされた。しかし、安価な楽器を造る方法が見つからず、断念せざるを得なかった。この時製作されたモデルは、ヘラルド、ジュビリー、リライアンス、エンデュランス(フランスから輸入されたもの)、コングレスと名付けられていた。このほか、少数限定生産や、特別製作のものとして、スペシャル・コングレス、フェスティバル、ファンファーレ、デラックスがある。大人部楽隊のための初期の主流モデルは「ゴールド・メダル」と呼ばれ、後に「トライアンフ」と改名された。1914年には、「トライアンフォニック」と呼ばれるシリーズが加わった。「トライアンフォニック」は、救世軍楽器製作所が閉鎖されるまで、造られ続けた。

セントオルバンのキャンプフィールド楽器製作所のメイン工房

英国の金管楽器はその初期より、ハイピッチ(A=452)で造られていた。ハイピッチは「フィルハーモニック・ピッチ」とも呼ばれた。これに対し、他の大半の国々では、ローピッチ(A=440)で造られていた。これは、「コンティネンタル・ピッチ」あるいは「インターナショナル・ピッチ」と呼ばれた。救世軍キャンプフィールド楽器製作所は、残っている古い資料をさかのぼって調べると、1926年頃にはすでに、両方のピッチの楽器を造っていた。1926年以前にも、おそらく、ハイピッチとローピッチの両方を製作していたであろうと思われる。1964年に、著名な金管楽器会社ブージーアンドホークスが、ハイピッチの楽器の製造中止を決定し、救世軍もこれに同意して中止した。

救世軍のクレストが刻印された楽器

セントオルバンの救世軍楽器製作所は1972年まで操業し、その後ブージーアンドホークスに売却された。売却時の協定により、ブージーアンドホークスはその後も七年間は救世軍モデルの楽器を製造した。ただし、「バンドマスター」と呼ばれる最上位モデルのコルネット、「トライアンフォニック」シリーズのテナーホーンのみであった。製造継続の協定は1979年に期限を迎え、救世軍製の楽器はすべて、終わりを迎えることとなった。

1972年に救世軍楽器製作所で製作された最後の楽器は「ヘラルド」シリーズのコルネットで、シリアル番号は34283である。1972年当時、機械設備が老朽化しており、精密な部品を造るのが難しくなっていた。器具や工具の中には、第一次世界大戦の生産余剰品として購入したものもあった。ロンドンの救世軍の指導部は、楽器製作所の設備の現代化には資金を投じないことを決定した。設備の一新には莫大な費用がかかり、また、工場の赤字が何年も続いていたからである。キャンプフィールド楽器製作所は、救世軍バンドの需要に応えるという、輝かしい歴史を担って来た。救世軍の野戦(街頭での伝道活動)での実用と、時に予想される迫害に耐え得るよう、楽器は分厚いメタルと重い銀メッキで出来ていた。その「匠のわざ」は、先に述べたEフラット・バストロンボーンのリールと滑車の工夫によく現われている。救世軍の楽器製作所はまた、低音楽器の補助バルブについても、競合他社の製品に対して、遅れを取らなかった。

83年間の歴史で、わずか3万4000本の楽器しか製造されなかったが、これらはすべて、主の栄光のために造られたものであり、世界に広がる救世軍バンドの需要に応えるためのものであった。救世軍の楽器工房で仕事をした職人の多くは、小隊バンドで楽器を吹く楽隊員でもあった。救世軍バンドの歴史に貢献したこれらの男女に、わたしたちは今日、心からの謝意と敬意を表するものである。

出典:
http://www.sacollectables.com/instrum.htm

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