最後の晩餐で使う店

正しいことより大事な何かってあると思う。人の無作法を咎める正しさよりその後ろに流れる気持ちを想像する心のような何か。中華料理屋の薬のゴミの件でそう思った。
捨てられたゴミは捨てた人間を能弁に物語る。時には余命もうそんなにないことまでゴミが語る。
料理屋というのは客がどういう事情で食べに来るかさっぱり分からなくて最後の晩餐のつもりで来てるのかもしれないと思うくらいの想像力を感じる店で最後の晩餐なら使いたい。薬のゴミをネットに晒してこういう客は来て欲しくないというような店は絶対に最後の晩餐には使いたくない。
末期ガンの母がここの料理を食べたいと言った店に連れて行った時それまでぼんやりした顔だった大女将の顔が引き締まりちゃんと料理が出てきて時を過ごせた。最後の晩餐で使いたい店というのはこの大女将の店のような店で少なくとも薬のゴミをネットに晒してこういう客はくるなという店じゃない。
ネットに客の無作法を晒して不快感を露わにするような人間として未熟な料理屋ではなく人間としての見所のある店で最後の晩餐は迎えたいと思った。