渡辺八畳さんの記事を読み、詩の流通について考えていること

渡辺八畳さんがTwitter界隈にいる詩クラスタについてまとめてくださった記事を読みました。

Twitterにいる詩人、詩クラスタのグループ別解説(2019年度版)
https://note.mu/8jo/n/na85ee51ecfd3

私はこの文章を読みながら、自分が見落としていた方が多くいることに反省しました。
特に、#アトリエ部・#詩人の本懐はきちんと関わっていないから、読む機会を持てたらなと思いました。
ありがとうございました。

そして一つ疑問に思ったことがあります。
〇渡辺八畳さんはB-REVIEWの運営として、ご自身が情報を伝え、広げる側に属している人なのではないだろうか。

そしてこれから期待していることがあります。
〇情報を伝え、広げる側の人として、これからどうされたいかを示してほしい

これを思ったのは具体的には同人誌について書かれたこの部分です

「せっかく作った同人誌が読まれなくてもいいのかね。」

私は同人誌を作っている人を名前と顔の両方が浮かび、悲しくなり、それから渡辺さんのこの記述をどう役立てたらいいのかを考えていました。

とはいえ、私は渡辺さんに偉そうなことは言えません。
私自身も8年ほど前に、同じことを考えました。
しかし、私にそのときできたのはメルマガでの紹介くらいだったからです。

さて、渡辺八畳さんの投稿を読まれた方に気をつけていただきたいことは二つあります。
どちらも渡辺さんにとってはすでに知っていらっしゃることなので書かれなかったと思っています。

〇クラスタの見取り図と、各クラスタから受け取れる情報の質は無関係だということ。
〇情報を伝えたり手に入れるためのコストを誰がもつのかという視点が必要だということ。

そして、渡辺八畳さんが記載されていないのですが、重要でかつ取り組まないといけない流通媒体が一つあります。これは私が雑誌を始めるまでは盲点でした。

〇教育機関です。

渡辺さんへの疑問とリクエストはさておき、
後半部分について書かねばなりません。

本来なら先週書きたかったのですが、時間が取れず、いつまで取れるかわからないので、乱筆なのですが書いて行きます。

クラスタの見取り図と、各クラスタから受け取れる情報の質は無関係だということ。

本当にここについては渡辺さんはご存知だと思っているのですが、あえて擁護したいとおもい、書きました。

渡辺さんの投稿で挙げられた同人誌のなかで、特に思い入れを込めて擁護しなければならない『ミて』を例に話します。
新井高子さんの編集されるこの詩の雑誌は二十年以上続いてきた非常に読み応えのある雑誌です。
読み応えの主な理由は書き手側に非常に寄り添っている無骨な編集です。

A4の色上質紙に印刷された文字だけの表紙
そして各著者が自由にレイアウトしたA4の原稿が掲載されています。
書き手が気ままに見えるような編集です。

書き手としても、読売文学賞を受賞され、伊藤比呂美さんの詩をほぼ等価の語彙の英語に翻訳するジェフリー・アングルスさんや奄美大島などのフィールドワークで知られる今福龍太さんが新作を寄せています。

特筆すべきなのは中東の文学を継続的に伝えていることです。
イナン・オネルさんの翻訳するトルコの詩人アタオル・ベフラモールの作品は本当に素晴らしい。早く詩集を企画で出版してほしいとおもっています。
また、イランの文学の紹介を行っていた前田君江さんは昨年、シリアの絵本の翻訳を出版しています。
https://www.ehonnavi.net/author.asp?n=35638

ほか力のある同人誌としては、近年、瀬戸夏子さんに 自由詩の新しい局面を作った『Aa』。
そして岬多可子さんたちの力ある原稿が寄せられた『左庭』…

クラスタの見取り図と、各クラスタから受け取れる情報の質は無関係であり、少なくとも同人誌については、発行人が必要だと思う質の情報と、そして流通量でやっているものだとおもっています。

なので、「せっかく作った同人誌が読まれなくてもいいのかね。」
という段落に含まれる言葉は私には残念なものでした。

とはいえ、その知の質とそのありうるべき流通量がけして一致していない視点は大切だと思います。ですが、その流通に関するコストは誰が払うべきなのでしょうか。

情報を伝えたり手に入れるためのコストを誰がもつのかという視点

これは大きく二つに分かれます。
(1)情報を伝える人は、誰を読者にしたいのかを選ぶ権利がある。ただし権利を主張したらそのコストを払う必要があります。
(2)情報を手に入れたい人は何を手に入れたいのかを選ぶ権利がある。ただし権利を主張したらそのコストを払う必要があります。

厳しい言い方になるのですが、インターネットで広く評価を求めることを、それをやらない人に求めるのはお門違いではないか、ということ。
そして、情報を求める人は節度と礼儀をもって求めなければならないということです。

この二つについて痛感したのは、賞を受賞した書き手の投稿のモチベーションを伺った時です。

一年間継続して詩の投稿を続ける人たちは選者をたった一人の読者として位置づけ、その人とのやり取りを通して成長していました。

このことは私にとって大きな驚きで、かつ強い反省を私にもたらしました。
私はそのような心をもって投稿をしなかったし、選者に対する強い信用を持っていなかったからです。

さて話は変わりますが、情報を伝える人と手に入れる人の関係性の中で常に問題になるのは「寄贈」です。
私は「寄贈」してまで読んでほしい人がいることの必然性を信じます。
単純に顔の浮かぶ読んでほしい方がいるからです。

しかし、私は「寄贈」が文化であるという考えは同意しません。
文化になることで必然性のないコストがかかり、そして読まれない本が増えるばかりです。

私たちは何を読むかを選ぶ権利と同時に、誰に読んでもらうかを選ぶ権利があり、その双方に対し敬意を持つ必要があるとおもっています

つまり、情報を手に入れたいと思う心が、伝えたいと思う心より強いときは、手に入れたい人が行動を起こすべきだと思っています。
要は、とりうる連絡手段を探り、連絡し、依頼する、ということです

読者を見つけるのと、書き手を見つけるのはどちらも対等であるべきだとおもっています。

関わるべき場所としての教育機関

これは海外の詩の勉強を始めたときに気づいたことです。
私だけが知っている、と思ったことの多くは実はすでに研究が行われています。
たいていは一人か二人の人が属人的にやっています。

例えばCiNiiやJ-Stageで「国名+現代詩」や好きな詩人の名前を検索すると、1970年代ごろまでの詩人は誰かが研究を手掛けています。
そして研究者の大概はネットの詩とかかわっていません。

研究者との連絡は大学にお願いしています。
論文を読んだあと、Googleで現在の勤め先を探し、大学にメールし...と地道にやり取りをしています。
関わりたい人に触れるには、同人誌の書き手にご連絡するのと同じように一対一でやりとりをすることが大切だと学んでいます。

その結果知り合った書き手の一人は「て、わた し」第五号でアルフォンシーナ・ストルニの翻訳を紹介してくださった駒井睦子さんです。
日本でほぼただ一人、彼女が研究しているストルニの作品は1930年代に書かれたにもかかわらず現代に通じるフェミニズムの視点を持っており、そして佐川ちかと並び立つモダニズムの詩人です。
海外では、南米のGoogleのトップに描かれるほど有名な詩人にもかかわらず、日本ではほとんど紹介されたことがありませんでした。
駒井さんの研究については以下の論文を参照ください。

アルフォンシーナ・ストルニの7冊目の詩集における前衛的手法 : 新しい「私」が語る新しい物語
http://digital-archives.sophia.ac.jp/repository/view/repository/00000034039

アルフォンシーナ・ストルニの詩における女性の語りの複雑さ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/hispanica/2012/56/2012_159/_article/-char/ja/

駒井さんのような研究者が一般に知られていくことで日本の詩はもっと豊かになると信じています。

しかし、今現在、まだ、学術と制作の双方にくまなく目を配れるメディアは自由詩では多くないはずです。
そして、紙媒体での論文掲載が基本の学術では、ネットでの論文掲載がキャリアにプラスになるかどうか強い疑問です

私自身は「て、わた し」を通じて少しずつ視野を広げていきたいと思っています。

私は研究者の視点とネットの詩がかかわることで新たな市場が生まれると確信しています。
特にポエトリーリーディングでは有望だと考えています。
ただし、これが研究者の利益になるかどうか…は微妙です

最近知った気がかりなことがあります。
翻訳の発表は研究者の実績としてカウントされないらしいことです。
文芸にとって翻訳はそれ自体が読みであり批評であるにもかかわらず
そして詩を紹介したい研究者もいるにもかかわらず…と私は思います。

研究者のキャリアと役立つよう、研究と制作を結び付けるにはどうしたらいいか。それともこのこと自体は考えずにすすめていいのかどうか。
教えてくださる方を探しています。

また、日本のポエトリーリーディングを含めた近年の詩を記した論文は、例えば城西国際大学のJordan Smith准教授(本人も素晴らしい日本語のパフォーマーです)によるHeisei Murasakiのほかに私はまだ知りません。情報を求めています。。
http://www.academia.edu/34463903/Heisei_Murasaki_What_Women_Poets_Have_Found_during_Japans_Lost_Decades

私自身について

さて、私は渡辺八畳さんに

メディアを作る人として、これからどうされたいかを示してほしい

と書きました。私自身はどうしたいのかを素描します。

・現状できるコストの範囲でこれまで続けていることを続けていく。
私の作っている詩の雑誌『て、わた し』は日本の詩と世界の詩を対バンのように紹介するという編集方法をとっている雑誌です。力のある書き手を紹介することと、幸いにも協力してくださる皆さんの力を通じ、紙媒体で発行しています。

紙媒体なのは、装丁・イラストに非常に力のある方と一緒に仕事ができていること。
そして、海外の詩を伝えるにあたり、過去何年かのブログを通した活動などを経た反省からです。
現状、文芸誌は装丁に力のある紙媒体と、書店の形を通じて伝える力が、WEBより大きいと感じています。
私は文芸と生活をどこかで結びつけたいと思っています。この結びつくタイミングではWEBは力を持つと思っています。

WEBは補助として、紙媒体を続けていきます。
とても苦手な段取りについても実践することで、書店とのご縁も無理ないように築き、発送できるよう心がけたいと思っています。

また、『て、わた し』はISBNをとっていません。これは純粋にISBNとJANコードに支払うお金および、現状の発送能力の比較を行なった結果、とっていません。将来、機会があれば…とおもっています。
(寄付は歓迎です)

・書き手とのご縁をつづけていきたい。

私は小さな頃から継続的なおつきあいを広げるのが苦手でした。
礼儀をきちんと守る、メールを返すなど、きちんとしていきたいとおもっています。

・(継続できる限りにおいて)『て、わた し』に掲載されることが価値あることにしていきたい。
・制作と学術機関が交われる場所をつくりたい
私自身は今『て、わた し』の協力いただいている方と詩の読書会を行なっており、その成果を『て、わた し』でも発表しています。
受け取るばかりでなく、なんらかの形で研究されている方に資する活動ができないかな・・・と思っています。

・新人賞・文学賞をやりたい。そのための理論構築をきちんとおこないたい。
詩の雑誌の役割の大きなものは、新しい詩人の発掘を通じ、自分たちの信条を明らかにすることでした。
『て、わた し』も新人賞・文学賞を行うことで新たなメッセージを訴えかけられればと思っています。

・100km走るときは、事前準備(練習・クラウドファンディングなど)をきちんと行い、怪我なくそしてトリックスターではないように心がける。
現代詩手帖2017年11月号にて掲載の通り、私は前橋ポエトリーフェスティバルまで自宅から走りました。
そのときは時間がなく50kmの練習を一度しかできませんでした。
最低でも初めてウルトラマラソンを行なった時のように50km・60km・70kmの練習を積んで、走らないといけないなと改めて感じています。

ほかにも、もっとレスポンスを早くして失礼をなくしたいなどなど・・・
私は小心なので投稿を送るのと同じくらい依頼をするのも勇気がいります。依頼を送るのも断られるのではないかと考えて逡巡します。
実は依頼が不適切だったと気付いたときもあり、そのときは何日も言い出せなくて不機嫌でした。こういうのも直して行きたいと思っています

これらのことのきっかけとして、3/23のトーク

3/23に、私、山口勲は、リトルプレス『ゆめみるけんり』を発行する工藤なおさん、藤田瑞都さんと西荻窪の書店 忘日舎でトークイベントを行います。

「て、わた し」ではこれまで発表した詩人による朗読イベントは開催してきましたが、リトルプレスを作る人同士で話をするのはこれが初めて。
本づくりのやりかた、そして書き手の見つけ方といったことから、日々のことまで関心がつきません。

これまでどうしてきたか、これからどうしていきたいか

いろいろお話ししたいと思っています。

ぜひお越しください