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「共同親権」について考える(1)

1.はじめに
 EUの子の連れ去り問題についての日本に対する決議や共同親権に対する集団提訴などの社会的な動きに合わせて、マスコミが共同親権の問題を取り上げることも増えてきた。
 私は、日本にも一日も早く共同親権を導入されるべきだと考えるものであるが、共同親権をめぐっては賛成派、反対派からさまざまな意見が出されているだけでなく、賛成派の中にもいろいろな考え方があるため、自分の思考の到達点を明らかにするために、この論考を公開する。

2.「親権」は基本的人権なのか
 
「親権」を憲法で保障される基本的人権と考えるべきか、否かについては、従来、憲法学者があまり論じてこなかったところでもあり、法律家の間でも認識の差が著しい。
 これは、民法に実定法として規定されている「親権」(同法818条以下)とは別個に憲法に基本的人権として位置づけられる「親権」を観念できるかという問題である。ここでは、両者の概念の混乱を避けるために、前者を「民法上の親権」、後者を「憲法上の親権」と呼ぶ。
 札幌の弁護士である猪野亨氏は、「憲法上の親権」概念を理解しようとしなかったし、東京都立大学の木村草太教授は、「憲法上の親権」を論ぜずにすべて「民法上の親権」に議論を矮小化しようとしているように見える。憲法学者なのに、憲法からは決して語らない姿勢から、木村教授の「学者」としての資質が疑われる所以である。


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 それでは、「憲法上の親権」が認められる根拠は何であろうか。
 憲法の条文上の根拠規定としては、憲法13条の幸福追求権と憲法24条2項の「個人の尊厳」があげられる。この点、佐藤幸治教授は「家族関係は、世代を追って文化や価値を伝えていくという意味で、社会の多元性の維持にとって不可欠の条件である。そして、それは個人の自己実現・自己表現という人格的価値を有するが故に、基本的には人格的自律権の問題と解される。この問題は、家族生活と個人の尊厳・両性の本質的平等に関して定める憲法24条の法的性格・内実をどう捉えるかに関係してくるが、24条の解釈が未だ必ずしも定まっていない中で、家族の形成・維持にかかわる事柄の根本は人格的自律権(自己決定権)にあることをまずは確認しておきたいと思う。」とされている(「日本国憲法論」初版4刷 P.190 なお、「人格的自律権」とは「幸福追求権」の一部を意味する。)
 佐藤教授の考え方に従えば、「憲法上の親権」は、まさに「家族の形成・維持」にかかわる問題であり、基本的人権にほかならないということになる。実質的に考えても、個人がどのような家族関係を望むかということは、まさにその人の人格の核心的部分であり、これに憲法上の保護がない(国家がどのようにでも親子関係を規定しうる)ということは、考え難い。
 なお、「民法上の親権」は子が成人すれば自然に消滅するものであるが(民法818条1項)、「憲法上の親権」は子が成人しても消滅することはない。ただし、子の人格的自律性が年齢とともに強くなるに従って、その内容が変遷することはある。この意味で、「憲法上の親権」は本当は「憲法上の親と子の関係性の権利」と呼んだ方が正確だとは思う。

おまけ ~宿題の解答~

 以前、篠田奈保子弁護士のツイートに返信して問題を出しておいてそのままになっていたので、その解答例を示したいと思う。

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まず、クリスチャンであるCが布教のために他人を教会のミサに誘う行為は、それが社会通念上相当な態様でなされる限り、信教の自由(憲法20条)として保護される。もちろん、この自由は国家権力からの自由の保障であり、私人間に無限定に及ぶものではない。しかし、他人の布教行為を正当な理由なく妨害すれば、民法上も違法となり、不法行為に基づく損害賠償責任を負う場合がある。
子Bも当然、憲法上の信教の自由を有するが、それは一切宗教を信じないことも含めた、信仰選択の自由でもある。問題は、7歳の子どもが自律的に信仰を選択できるかという点である。一般的にはそれは不可能なので、子がどのような宗教とどのように関りを持つかあるいは持たないかは、親の判断に委ねらることになる。したがって、実母Aはそのような勧誘をしないようにCに要請できるとしなければならない。
実母Aが離婚して、子Bに対する民法上の親権も監護権も失っていた場合、AはCにそのような要請をなしうるのだろうか。もちろん、そのような要請をすることは信教の自由を不当に侵害しないとして法律構成することも可能であるが、端的に「憲法上の親権」の効力として子Bの持つ信教の自由を保護できるとした方が簡明である。また、CがAの配偶者の祖母であった場合、Aは民法上の親権を有していれば勧誘を拒めるだろうが、民法上の親権を失っていた場合には何も言えないことになりかねない。
以上から、「親権は、子どもが人権享有主体」であるとする考え方は、採用することができない。
なお、子の年齢が17歳に達していた場合は、子自身の信教の自由の保護の程度が高まるので、親が過度に干渉する場合には子の信教の自由を不当に妨げる不法行為となる可能性もある。


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