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「情的にわかる」ということ

身体というのは本当に不思議なもので、自分で自分の身体をどうやって動かしているのか説明ができないのですが、でも動いている。目や口や鼻、手足指先など、目に見えて意識の届く範囲ならまだしも、身体の内側はまったくもって、どうやって動いているのかわかりません。けれども、生命を支える数多の働きが、自分の意識の外で調和しながら進んでいる。本当に不思議なものです。

毎日ストレッチをしても、朝起きて目が覚めたら元通りに固くなっている。

またじっくりじっくりとほぐしてゆくわけですが、最初は不便に感じていたこの「固くなったものを柔らかくしてゆく」という営みも、いつしか「固さ」があるから「柔らかさ」のありがたみがわかり、「柔らかさ」があるから「固さ」のありがたみがわかる、という循環にある種の安らぎのようなものを覚えました。「不安定がゆえに安定している」ということが身体を通してわかってくる。

ずっと「固いまま」あるいは「柔らかいまま」という状態は、安定しているようにみえて不安定というのか「便利がゆえに不便」というのか。「ここからここまでは固い」というように明確な白黒がつけられないグラデーションのように連続的な状態を日々経験するというのは、じつは「心を動かす」ことに他ならないのではないか、と思うのです。身体のストレッチを通して、心もストレッチされている。

「腹落ちする」という言葉を最初に作られた方の感性の豊かさに尊敬の念を抱いているのですが、何かが「スッ…」と自分の中に降りてくるというか、モヤモヤとした何かほどけてゆく感覚は、頭でとどまることなく、腹の奥底まで何かが通り抜けて、そして心地よい緩みと爽やかさがあります。

久しぶりに数学者である岡潔さんの著書を読み返していて、「情的にわかる」という言葉にふれてみると、「情的にわかる」というのはおそらく「体得」する他ないのではないかという気がしています。

デジタル化の進む社会では様々な物事がデータとして「外部化」されてゆくわけですが、もしかするとこの状況は人間の「身体を通して情的にわかる」という根源的な力を抑えてゆく環境を自ら作り上げているのではないだろうか、という問いが浮かんできます。

もちろんデジタル化による様々な恩恵があります。「自分の外側から与えられる何かを頭で分かる」が過剰にならないように、「自分の内側に響く繊細な声に耳を澄ませる」ことも等しく大切にしたいものです。

知、情、意というものについて一度考えてみましょう。情は常に働いていて、知とか意とかはときに現れる現象だから、情あっての知や意です。「わかる」というのも、普通は「知的にわかる」という意味ですが、その基礎には、「情的にわかる」ということがあるのです。

岡潔(森田真生 編)『数学する人生』

わからないものに関心を集めているときには既に、情的にはわかっているのです。発見というのは、その情的にわかっているものが知的にわかるということです。(中略)心がわかり合うというときの「わかる」は、口ではいえないような、意識を通して見ることのできないような「わかる」です。知的な「わかる」ではなくて、情的な「わかる」です。

岡潔(森田真生 編)『数学する人生』

創造のはじめに働くのも情です。情というのは不思議なもので、わからないながらわかるという働きを持っている。そうして人は、情的にわかっていることを知的にわかるように表現していくのです。数学に限らず、情的にわかっているものを、知的にいい表そうとすることで、文化はできていく。(中略)情の働きがなければ、知的にわかるということはあり得ません。知や意は、情という水に立ついわば波のようなもの。現象なのです。

岡潔(森田真生 編)『数学する人生』

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