カタチを与え、カラダでふれて、信じることができる

今日は『触楽入門 -はじめて世界に触れるときのように-』(著:テクタイル)から「心を落ち着かせる触感のお守りをつくってみよう」を読みました。

昨日読んだ内容を少し振り返ると「テディベアは受容のメタファー」という話がありました。テディベアにふれたときのやわらかさ、あたたかさ。心地よいものにふれたときの「ホッ」とする気持ち。安心感。心地のよいものにふれると不安、孤立感がやわらぐのだそうです。

実際に被験者を2つのグループに分けた実験で、パーソナル・テストを受けたあとに「社会的に認められる」と伝えたグループと「社会的に孤立する」と伝えたグループについて、テディベアに対して支払ってもよい金額をたずねました。すると「社会的に孤立する」と伝えられたグループのほうが金額が高かったとのこと。テディベアが不安感をやわらげる意味で、大切な存在として認知されたことが裏付けられたそうです。

やわらかさ、あたたかさにふれて「つながり」を感じる。人間は自らの身体を通して「実感」を得る。触感は「つながり」の感覚なのだとあらためて感じました。

さて、今日読んだ範囲では「ふれられないものにふれる」というテーマが展開されていました。

時間と空間を超えてつながりを感じる

著者は近世ヨーロッパにおいて、装飾品としてミニチュア肖像画が流行したことを紹介しています。手におさまるサイズの象牙をカンバスとして淡い水彩絵の具で描かれているものです。肌身はなさず持ち歩き、遠く離れた人に想いを馳せたのです。

 愛する人の肖像を手の中におさめているということは、ある種、その人を包み込んでいることのメタファー(隠喩)となっています。会えなくなってしまったとしても、私の手の届くところにあの人はいる。そのことを体感できる効果がありました。

愛する人の肖像は「その人を包み込んでいることのメタファー」であると紹介されていますが、はたしてどのようなことなのでしょうか。

時間も空間も離れた人に想いを馳せる。先人、まだ見ぬ子孫、同じ時代に共に生きる人。

人は目に見えないもの、実体がない存在も信じることができます。身体で肖像にふれることを通して、描かれた人がいつも自分の側に寄り添い続けていると「実感」できる。その寄り添っているという実感が「包み込む」という表現と重なるように思います。

信じるためにふれる。肖像にかぎらず、肌身離さず持ち歩いているものには「つながり」をいつの間にか感じる。何かが自然と宿るんだと思います。

カタチを与え、カラダでふれて、信じることができる

著者は「実体のない概念に形を与える」ことについて次のように述べています。

 愛情や祈り、祝福、誓い、不安や恐れ、生命力、こうした実体のない概念に対し、触ることができる形を与えることは、宗教や芸術の起源にさかのぼる行いではないでしょうか。

実体のない概念に形を与える。後期旧石器時代の地層から「ヴィーナス」と呼ばれる女性を象った小像が出土したそうですが、その時代は狩猟が生命をつなぐ術であり、狩りが成功するかは必ずしも保証されていません。ともすれば命を失う危険もあります。

ですから無事に狩りが成功するように祈りを捧げる。大切な存在を身近に感じ続けたいと思う気持ちはいつの時代も変わらないと思うと感慨深いです。

 私たちには、つかむことのできないなにかを肌身で感じることが必要なのだと思います。身体を持っている私たちが信じられるのは、このような触感の力なのです。

「つかむことのできないなにかを肌身で感じることが必要」という言葉が印象深いです。やはり、私はまだ自分の身体のことを何も知らないのだと気付かされました。物質的な身体ということではなくて、総体としての身体を知らない。


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