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教育とは「教わり、育つ」ことではないだろうか。 〜使い慣れた言葉を新鮮に感じる〜

「教育とは教わり・育つ」ということなのではないだろうか。

穏やかで爽やかな青空のもと、春の嵐のように吹き荒れる強い風に抗うように必死で歩いていると、ふとなぜか思い浮かんだのです。

教育の考え方は様々あると思いますが、「誰かが誰かに何かを教え、育てる」という一方向的なイメージを描くことが多いのではないでしょうか。ですが一方向な関係性だけではなく、本当は「双方向的で対等な関係性」も含まれているけれども、暗黙のうちに捨象されているということなのかもしれないと思うわけです。

「教育する・される」という関係を超えて、誰もが教わり育つ。「教わり・育つ」と捉えるならば、それは「学習」という言葉、概念に限りなく接近するだけでなく、なんだか他者への尊敬、配慮や謙虚さの香りが感じられてくるのです。

日常生活で何気なく使っている言葉、使い慣れている言葉も捉え方を変えればそれだけで新鮮に感じられてくるというのは、言葉と出会い直す、つまり多義的な意味の世界を「俯瞰する」ような、見通しが良くなる感覚とも言えるような気がします。

あるいは既存の枠から「逸脱する」ような感覚にも近いのかもしれないと思うと、「新しいとは何を意味するのだろう?」という問いが浮かんできます。逸脱するためには、最初から正しさにこだわりすぎないことが大切なのかもしれません。

古い建築材料を現在のモダンな建築物に取り入れたとしよう。すると、それは一部分だけが古いと感じられるだろうか。そうではない。これまでになく斬新な建築物になるだろう。
これと同じように、古いものをどうとらえるかだ。古いものを古いだけのものとしておいたら、それは古臭いままだろう。しかし、古いものを現在に活かせば、それはとても新しいものになる。
要は、何についても自分のとらえ方次第で新鮮なものに変わるのだ。

白取春彦『ヴィトゲンシュタイン 世界が変わる言葉』

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