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再帰性、偶然性、そして多様性。(身体と人生の共通項)

自分の身体はどのように出来上がってきたのだろう。現在もまだ未知の部分も多く、深遠な生命の神秘性を感じながらも身体が出来上がってゆく過程、仕組みを知るにつれ、「どのように生きてゆくのか?」という問いを考える足場を与えてくれるような感触がありました。

最後に引用していますが、身体は「最初に全体の設計図があって、その設計図にしたがって"誰か"が命令を与えて部品を作ってから組み上げていく」というプロセスとは全く異なります。

身体は全体の設計図があるわけではなく、命令を与える人もいない。「自らの内側にある情報」を自らが読み取って、様々な細胞を自らが作ってゆく。

自らが生み出した何かを、再び自らに取り入れて生み出しゆく。その反復、循環的な過程を「再帰的(regressive)」と表現しますが、再帰性に偶然性や多様性が織り重なって、細胞が分裂しながら、身体というシステム全体が成長していきます。

「再帰性」は「内省」に通じるように思います。たとえば、今日一日の行動を振り返ってみる。内省を通じて自分が「自分から得た」学びを再び自分に戻して、未来の行動を変えていく。それは、過去の延長線上には存在しない未来を築こうと努めるようなことかもしれません。

精緻な計画や完成形がなくとも、生まれてから出会ったあらゆる物事、自分自身から学んでいく。そこには縁起(ご縁)という形での偶然性や多様性が内在しているわけで。

その意味で「人生」もまたこの世を去る瞬間まで未完成であり続け、身体と同様に自らが自らを作り上げてゆく構造になっていると言えるのかもしれない。そう思うと、自分と共にあり続ける身体、「自分自身」の成り立ちを深く知ってゆく、潜ってゆくような営みがとても大切なように思えるのです。

胚発生のしくみは少しずつ読み解かれつつあるという段階でしかないが、すでに断言できることもあり、その一つは、人体の「構築」が、わたしたちが普通に思い浮かべる「構築」、すなわち建築や工業生産における構築とはまったく異なるということである。

『人体はこうしてつくられる―ひとつの細胞から始まったわたしたち』

機関車の製造やビルの建設など、ほとんどの工学プロジェクトには同じ特徴がある。まず、事前に具体的な計画が存在し、設計図その他の形で明確にされている。(中略)次に、どのプロジェクトにも全体を指揮監督する人間がいて(建築家やチーフエンジニアなど)、その人間が指揮系統を通じて具体的な作業(切削、レンガ積み、溶接、塗装等々)を行う現場の人々に指示を出す。(中略)つまり、必要な情報はあくまでも外から来るのであり、徐々に作り上げられていく構造物そのもののなかにあるわけではない。そして最後に、ほとんどの構造物や工業製品は、完成しなければ機能しない。

『人体はこうしてつくられる―ひとつの細胞から始まったわたしたち』

では生物構造はどうかというと、以上の特徴はまったく見られない。(中略)工学プロジェクトとは異なり、生物構造には設計図のように完成構造を表したものがない。(中略)これに対して生物の構築の場合、発生に必要な情報は胚のなかにあり、それを胚自身が読み取って自らを作り上げていく。外部の何かが代わりに考えてくれたり行動してくれたりするわけではない。また、人工物の場合は誰かが全体に対して責任をもつが、生物構造の場合は構築にかかわる全要素が責任を共有する(これについてはあとでまた述べる)。つまり人体の構築をコントロールするのは少数の特別な要素ではなく、システム全体である。

『人体はこうしてつくられる―ひとつの細胞から始まったわたしたち』


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