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視覚をさえぎると触感はどう変わる?

今日は『触楽入門 -はじめて世界に触れるときのように-』(著:テクタイル)から「目隠しをして、いろいろなモノに触れてみよう」を読みました。

昨日は「五感に境界は存在するのだろうか?」という問いにふれました。視覚情報は光の振動(波)にふれている。聴覚情報は空気の振動(波)にふれている。味覚情報も口にしたものの微分子にふれている。嗅覚情報も香りの元になる物質の微分子にふれている。すべての感覚は「ふれている」に帰着します。

何かの音を聞いたときに「ツルツル」「ザラザラ」といった質感を感じる。何かを目にしたときに目にしたものの肌理(キメ)が分かるなどです。

とてもシンプルですが、言われてみると確かにそうだと思えるものでした。

さて、今回読んだ範囲では「視覚を遮断して触れると触感はどのように変わるのか?」というテーマが展開されていました。

全体から部分へ。部分から全体へ。

著者は「暗闇の中で食事をする」という事例を通して、視覚情報がない世界の知覚について紹介しています。

 フランス発祥の暗闇レストラン「Dans le Noir?」では、視覚障碍者が案内役をつとめ、ゲストは完全な暗闇の中で食事を体験します。私も体験したことがありますが、まったくの暗闇だから、いま自分がなにを食べているのかを目で確認することができません。頼れるのは指ざわりと香り、味、そして食感です。食べ終わったかどうかも、お皿を指で確認して初めてわかります。グラスは割れてしまう危険性があるので、プラスチックのコップでお水が用意されていました。視覚を遮断すると「それがなにか」がにわかに認識できなくなり、知覚の段階に立ち戻ることになります。

私も以前に「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」という場に参加したことがあります。同様に一筋の光も入らない暗闇の世界で知覚が変わったことを覚えています。

日常生活の中で視覚は情報全体の80%を占めるとも言われる中、他の五感に頼らざるをえません。最初に訪れるのは「不安」でした。距離感もつかめない。自分が何に触れているのかもわからない。そんな状況です。

何かにふれた瞬間、そのふれたものが生温かったり、柔らかかったりすると「生き物にふれたのではないか?」という気がして積極的に触れようとする気持ちが薄れてしまったり、少し固いものだとなぜか安心して全体を触れてみたくなったり。

視覚は「全体から部分」という順番で意識が向くのに対して、触覚は「部分から全体」という順番で意識が向いていく。部分を積み上げて頭の中で全体のイメージを作っていく必要があります。そう考えると、視覚に偏っている状況は本当は大事な細部が「見えているけれど見えていない」状態になっているのかもしれません。

触覚は「見えているけれど見えていない」「分かっているようで分かっていない」何かに気付くきっかけを与えてくれるのではないでしょうか。

言葉を覚えると言葉で理解したくなる?

著者は、言葉を覚えることが知覚にどのような変化をもたらすのか、次のように述べています。

 目をつぶってモノに触れるとき、私たちは一生懸命、感覚を研ぎ澄ませます。ところが、対象物の名前がわかったとたん、多くの場合、それ以上知覚に注意を向けるのをやめてしまうのです。人は言葉を使うことを覚えるとともに、目の前で起きている感覚を言葉で理解する段階に移行します(実際、いちいち触れるものに気を配っていたら、物事はなにも進まなくなるでしょう)。しかし、私たちは視覚を遮ってみることで、言葉によって分けられる前の知覚世界に、少しだけ立ち戻ることができるのです。

「人は言葉を使うことを覚えるとともに、目の前で起きている感覚を言葉で理解する段階に移行します」

言葉は「ある対象」を特定する、つまり「ある対象とそれ以外を区別する・分節化する」ことで世界を捉えようとするものだと思います。

視覚情報が遮断されると「そもそもそれが何か?」という全容がつかめず、直接的にはある対象とそれ以外を分節化できません。先に言葉が入り込む余地がなく、まずは「ふれる」という知覚が先になります。頭の中でイメージしながら「これはもしかしたら〇〇かもしれない」と後から言葉が登場するはずです。

言葉は便利ですが、言葉が先入観を与えて知覚を妨げてしまうこともあるのかもしれません。

視覚を遮断する。日常生活の中で取り入れてみたいと思います。

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