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「街を自分事にする」ということ

今日は『触楽入門 -はじめて世界に触れるときのように-』(著:テクタイル)から「街を散歩しながら、触感の地図をつくってみよう」を読みました。

昨日読んだ内容を少し振り返ると「触覚は年齢と共に衰えていくのか?」という問いがあり、答えとしては「必ずしもそうとはかぎらない。モノに触れる経験を豊かにすることで維持され、磨かれてゆく」ということでした。

熟練の職人、マッサージ師などが例示されていましたが、繰り返しふれる経験を重ねることで触感データベースが構築され、細部の違いが分かるようになる。多様な触感の中から本当に意味のある重要な感覚を見つけ出す能力を育むこと。

他にも演奏家の事例で、楽器の演奏に使う身体部位に対応する脳の体性感覚野の表面積が大きくなることが示されていました。モノにふれ続けることで脳が実際に変化します。スマートフォンにふれ続けることでも、指先を司る脳の体性感覚野の活動が活発になることが確認されています。

これらの事例から「少しでもいいから毎日ふれ続ける」ことの重要性を再認識したのでした。

さて、今回読んだ範囲では「感覚を言葉に表して意識する」というテーマが展開されています。

「街を自分事にする」ということ

「感覚を言葉に表して意識する」とはどういうことでしょうか。その入り口として著者が「街歩き」の事例を紹介しています。著者が学会発表のため、トルコのイスタンブール市を訪れた時のエピソードです。

実際に街を歩いてみると、自分の身体を使った体験は、やはり映像では代替ができないものだと実感しました。坂を登ったときの息の上がる感じ、石畳の少しよろけてしまう路面、狭い路地から吹いてくる生ぬるい心地よい風。これらを、自分が身体を動かして能動的に発見してゆくことで、街が「自分事」に変化するのです。

街が自分事に変化する。この感覚とてもよく分かります。私は旅先では予定を詰め込んでせわしなく過ごすよりも、街歩きを基本としてゆったりと時間を過ごすことが好きです。

色々なところに意識を向けながら、街の香りをたっぷりと吸い込みながら、自分の足でゆっくりと歩く。気になる場所があれば、ふらっと入ってみる。そこでの出会いに時間をたっぷりと使う。すると、その場所に住んだことがあるわけでもないのに、なんとなく自分の場所になったような安心感が生まれてきます。

あとから旅のことを思い返すときは「ここにはこんな建物があって…、その角を曲がると坂があって…」というように、記憶の中の街並みを散歩して何かを確かめるような、身体に残った心地よい疲労感とともに実感のある想い出がよみがえってきます。車窓から眺める流れるような景色もそれはそれで良いのですが、どうも思い返せないのです。

街歩きは、触感も含めて全身で感覚を受ける体験です。街を散歩するとき、あるいは遠くに旅に出るとき、その瞬間を撮影した写真と一緒に、感じた触感を言葉で書き留めておくといいでしょう。一度これをやってみると、街を歩きながら自然と触感を探すようになり、感覚のトレーニングになります。

感じた触感を言葉で書き留める。とても面白い取り組みだと思いました。触感を書き留めるというのは、自分と環境の相互作用を書き留めることです。具体的にはどのようなことでしょうか。

本書では「からだメタ認知」という研究が紹介されており、「足裏の触感をオノマトペで表現する」という内容でした。具体的には「こつこつ」「ぺたぺた」など足裏の触感を言葉にするものです。

言葉で触感を書き留め続けていくと、その街の触感マップができそうです。自分にとってその街がどんな街なのか。色々な街の触感マップを比較すると面白いかもしれません。

感覚を研ぎ澄ます=知覚変数に気づくこと

昨日読んだ範囲でもふれられていた「感覚を研ぎ澄ます」ことについて、次のように述べられています。

「感覚を研ぎ澄ます」という言葉がありますが、諏訪さんはこれを、より高い解像度の知覚変数に気づくことだと述べています。知覚変数とは、言ってみれば、なにかを感じ取る時に頼りにする感覚情報のことです。例えば、筧はこの実験で、足裏の触感には、ヒザの感覚も関係していることに気づきました。足裏と膝の触感の両方を意識できるようになったことで、より高い解像度の知覚変数を獲得したと言えます。

「知覚変数」という言葉は初めて知りました。熟練の職人、マッサージ師、演奏家などなど。感覚が研ぎ澄まされている人は、感覚の違いを自分の言葉で表せる方が多いように思います。

知覚変数は「参照可能な感覚情報」であると考えると、多様な感覚情報から大事な感覚に意識を向けて取り出すことができる必要があります。そして、言語化すると他者に伝えることができるわけですね。

諏訪さんは、身体を使って環境に働きかけ、環境に潜在している変数を取り出したとき、人は学ぶのだと考えています。知覚変数に気づくための手段として、「外化する」という行為があります。感覚を言葉などに置き換えることで、一度身体の「外」に出すということです。その最初のステップとして、断片的でもよいので、オノマトペでも名前でも色でも音でも、なんらかの形式のシンボルとして感覚を表現してみることを行います。

「人はどういう時に学ぶのか?」あるいは「学ぶとはどういうことか?」という問いがあります。「環境に潜在している変数を取り出すとき」という話が出ました。

自分の言葉で述べてみる、言語化してみる。日頃から実践している方も多いように思いますが、「感覚を言葉にする」まで実践している人は多くないのではないでしょうか。

マイケル・ポランニーは著書『暗黙知の次元』の中で「人は言葉にできるより多くのことを知ることができる」と述べています。表現する言葉が見当たらないから表現できないだけで、もし適切な言葉が見当たらないのであれば自分で言葉を作ってもいいわけです。

オノマトペを自分で作りながら、毎日一つずつ感覚を言葉にしてみようと思います。

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