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まず始めてみるということ。(期待値と感動)

「しっかり調べて、学んでから始める」よりも「まずは深く考えずに始めてみる」ことが、その物事との深い付き合いへの一歩なのかもしれないと思うことがあります。

「初めてみたけれどよく分からない」あるいは「想像と違う」という違和感もあるかもしれないけれど、それはそれでよい。そこで手放すのも一案だと思いますし、もう少し続けてみて違和感の源泉を探ってみるのも面白いと思うのです。

「想像と違う」とは、言いかえれば「期待値には届かなかった」ということでもありますが、その「期待」のほうがもしかするとズレているかもしれません。

自分の期待値を「ベクトル」として捉えてみると「向きのズレ」と「大きさのズレ」の両方があります。一度も試したことがない中で、誰から聞いた話であったり、世の中に出回っている情報などから期待に胸をふくらませるというのは、ある意味で自分勝手でもあります。

たとえば、「美味しいお店(料理店)」を一つとっても、色んな人が色々な評価をしていて、それは時に星の数で表されたりします。ただ、その星の数がそのお店の実態、もっと言えば「自分にとってどうなのか」を表しているわけではありません。味覚も人それぞれ。百聞は一見に如かずと言いますので、もし気になったのであれば足を運んでみるのがよいのではと思います。

ふと思ったのが「基本と応用」といいますが、基本から始めて応用に取り組まなければいけないと決まりがあるわけでもありません。まずは応用をサッと眺めてみる。その時は全く分からないかもしれませんが、何か面白さの種が見つかるかもしれません。種が見つかればしめたもの。芽吹かせて、育てていくための道筋としての「基本」を拾い集めていけばよいのではないかと思うんです。

思い返せば、私が楽器を始めたのも、まず先に素晴らしい音楽にふれた感動があったからです。母が購入したグスタフ・マーラー作曲「交響曲第五番」を自宅のCDプレイヤーで初めて再生した瞬間の衝撃。その時に「コンサートホールの舞台に立っている自分の種」が蒔かれたのかもしれません。

「感動は可能性の種なのかもしれない」と思うと、日々感動して生きてゆきたいものです。「感動する」というのは何も全身が震えるような感動だけではなく、たとえば何かを口にして「ああ、美味しいなあ…」と思うことでもよいと思うのです。感動は共鳴現象だとするならば、期待をしすぎることはガチッと自分を固めて震えなくしてしまうようなことなのかもしれません。

変わってゆくとはいえ、生まれてこのかた、ずっと変わらず追い求めている「これぞ我がいのち」と魂がうち震えるような何かが、ある。どこにあるのか、きっと躰の中にあらかじめセットされているような、春がやってきたのがうれしくて村人も山々も笑っていて幸せだなあと、ピアノでも弾いてやれと包み込んでゆくと、音の波と山の精気が混じりあって、魂がうち震えて、これこれこれのこと、と思ったりする。震える魂自体は同じ気がするけれど、震わせられる条件が毎度違う。だから「こうやればいい」という方程式はなくて、だからこそ何度でもピアノを弾いてみたくなる。

高木正勝『こといづ』 にじみ

何をするにも「選択」しなければいけないのだ。どれが「一番」いい選択なのか、大勢の意見を追えば追うほど、答えがなくて、ただただ時間が過ぎてゆく。だから、最近はひとまずやってみることにした。やって違ったら別のやり方を試せばいいやん。歳をとってよいことは、完成はないのだなと気づいたこと。ゆえに失敗もないのだな。だから、今日を奏でられたらそれでよい、それがよろしい。いつか蒔いた種が何かの拍子で芽吹くように、グラデーション、グラデーション、赤ん坊のお前も大人のお前もグラデーション、私もお山もグラデーション。とっぴんぱらりのぷう。

高木正勝『こといづ』 にじみ


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