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モノの「重み」が実感を生み出す。データに質量を与える。

今日は『触楽入門 -はじめて世界に触れるときのように-』(著:テクタイル)から「触感を探す旅へ」を読みました。

昨日読んだ内容を少しだけ振り返ると「触感を伴うアートとテクノロジー」という話がありました。芸術鑑賞をするときによく見かける「作品にお手を触れないでください」という言葉。これは「作品の状態を変化させないことによって作者の意図を保存する」ことが背景にあると思います。したがって作品と鑑賞者の関係は「見る・見られる」が前提とされています。

これは裏を返せば「触れることを前提とした創作」「作品の時間変化」の可能性が多分に存在しているということではないでしょうか。鑑賞者が主体的に作品と相互に関わりあう中で、実感を伴いながら多面的に作品から何かを引き出し続ける、探り続ける。考えるだけでとてもワクワクします。

また、テクノロジーの進化は「受け取った情報によりマテリアル(素材)の性質を動的に変化させる可能性」を開いてきました。紹介されていた事例は気候に応じて変化する建築、汗をかくと性質が変化する布地、必要なときだけボタンが浮かび上がる装置。

モノの性質が静的(固定的)だからこそ安心して過ごせる側面がある一方、それが制約となって生まれる不自由さが存在するのかもしれません。ヒトとモノの関係性が動的・インタラクティヴになることで、不自由さの解消や新しい快につながるのだとしたら、まずは「モノの性質が固定的であることの不自由さに気づく」ことが大切だと感じたのでした。

さて、今回読んだ範囲では「触れることで存在を実感する」というテーマが展開されていました。

何かに触れることは、自分の存在を確かめること

著者は「触感のお土産を探す旅」を提案しています。遠くに足を運ばなくてもよいので、日常生活の中で触感が気になったモノがあれば、それを自宅に持ち帰って記録してはどうでしょう、というものです。

触感のお土産は、私がそこにいた、ということの証拠になるものです。私たちは、モノに物語を織り込みながら生きています。贈り物の価値はモノ自体にあるのではなく、「あのときにあの人からもらった」からこそ、大事なものになる。自分が一度でも触れたものは、そのときの体験の記憶を織り込んだものに変わるのです

「触感のお土産は、私がそこにいた、ということの証拠になる」

この言葉は「存在とは何か?」という問いに向き合うためのカギになると思いました。「何かに触れる」ということは同時に「何かに触れられている」ということです。自分という存在は外部との関わりが一切断たれた環境で孤立して存在しているのではなく、自分を取り巻くモノ・環境との相互作用の中に立ち現れてくる。

そして、「触れた・触れられた」という感覚の蓄積が実感を伴って身体に記憶されていく。実を伴う存在が残ってゆく。

記憶や願いといったものは、実体がなく、移ろいやすいものです。そもそも、私たちの存在それ自体がはかないものであり、だからこそ私たちは、誰かが亡くなったらお墓を建てるなどして、その人の存在をモノに刻みこもうとするでしょう。

「お墓を建てるのはなぜだろう?」という問いは、今まで考えたことがなかったように思います。生をまっとうして実体を失った故人の存在。カタチを与え、実際に触れることで出会い直す。時間と空間を超えてつながる。

モノは「何かの役に立つ」という側面だけでなく「意味を受け入れる器」としての側面もある。本書から触覚に関する学びを得る中で、モノの捉え方が変容してきたように思います。

実感はモノの「重み」から生まれる。データに質量を与える。

著者は「触れることができるモノの役目」について次のように述べています。

ただ単に記録を残すだけなら、写真や音声によって代替することもできるかもしれません。でも、触れることができるモノは、唯一性とも個別性とも言うべきなにかを担っているのではないか、という気がします。

「触れることができるモノは、唯一性とも個別性とも言うべきなにかを担っているのではないか」

この言葉も印象的です。ある瞬間、ある場所において存在するモノは一意(ユニーク)である。写真や音声などのデータは複製可能です。つまり時間は一意かもしれませんが、複数の空間に同時に存在すること可能です。

触れること、唯一性、個別性。物質的な身体を有している時点で、人は誰もが替えのきかない固有の存在なのだということ。そんなことを思いました。

この存在の感覚は、身体を使ってモノに触れ、そのモノとしての「重み」をありありと感じるからこそ、実感を持って感じられるのではないか。私にはそう思えるのです。

この言葉にふれて思い浮かんだのは「データに質量を与えたい」という言葉でした。

存在感はモノの「重み」をありありと感じることで生み出される。それは私にとって説得力のある言葉でした。重さは「質量」でありエネルギーです。現代社会は日々膨大な量のデータが蓄積されていきます。データは質量ゼロです。 軽さの極限とも言えます。

あらゆる物事の結果をデータとして蓄積して分析し、メカニズムを紐解き、再現・予測・変化という形で新しいつながりを作ろうとしている。一方、人をデータの集合として一面的に捉えることは、その人の存在(実体・実態)を無視することと同義なのではないのだろうか。

現代社会におけるデータとの向き合い方において、触感・触覚は大切なことを教えてくれているように思います。つまり「データに質量を与えるにはどうすればいいのか」という問いが必要とされているのではないでしょうか。

「データに質量を与え、触れるように知覚していきたい」

そんなことを思ったのでした。

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