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「触れることで理解する」ということ

今日は『触楽入門 -はじめて世界に触れるときのように-』(著:テクタイル)から「触れることで理解する」「子供にとってのデザイン」を読みました。

昨日読んだ内容を少しだけ振り返ると「触れることで存在を実感する」というテーマにふれました。触れることは同時に触れられることでもある。人は「触れる・触れられる」という関係の中で、触れた実感と共に記憶を積み重ねます。

触れることのできるモノは写真や音声などと異なり唯一性、個別性がある。ある瞬間、ある場所で身体で触れることができるモノは一意に定まります。お墓を建ててお参りをする。物質的な肉体を失った故人にカタチを与えて、実際に触れることで故人の存在を実感するわけです。

身体を通して感じるモノの「重み」が存在を実感させる。とするならば身体で直接触れることのできない「データ」は存在感がないということなのか。

現代では日々膨大なデータが生み出され、蓄積され、処理されています。人もある意味ではデータ上の存在に変換されています。人を単なるデータ上の存在とみなすことは、その人の唯一性、個別性を無視しているのと同義なのかもしれません。だとするならば、データに触れることのできる「質量」を与えて、触れた実感を伴う存在に変換することが必要なのではないか。そのようなことを思ったのでした。

さて、今回読んだ範囲では「触れることで理解する」というテーマが展開されていました。

手触り感がある存在

「触れることで理解する」とはどういうことでしょうか?著者は「計算」を事例に自身のエピソードを紹介しています。

個人的な話になりますが、私は小学3年生のころ、10を超える足し算ができませんでした。理由は至極単純で、私の手には10本の指しかなく、それを超えたときに、なぜまだ数が数えられるのかを理解ができなかったのです。 幸運なことに、4年生になって通うことになった近所のそろばん教室が、私に計算の概念を教えることになりました。そろばんは一つひとつの玉が数字を表していて、数に直接触れて数える、とても触覚的な計算機です。私にとってそろばんは、算数計算の概念が「実体化」したものでした。そろばんの使い方を覚えたことで、私はそろばんなしでも計算ができるようになりました。

著者の言葉にふれて、小学生の頃に算数の授業で九九を習い覚えていた光景、公文に通い5〜6桁の筆算問題を解いていた光景がよみがえりました。筆算を解いている時に指を折って数を数えてはなかったと思います。

最初に数を数えはじめた頃は、同じように指を折っていたのだと思います。途中の数を覚えておくこと。忘れないうちに次の数に意識を向けること。数それ自体は抽象的な概念で実体がありませんので、指を折ることで「数を数えたんだ」という実感を確かめていたんだと思います。

著者がそろばんを習いはじめてから「数に触れる」という実感が生まれたと述べています。私も仕事やプライベートでデータ(特に文字や数字)に触れる機会が多いのですが、よくグラフ化します。直接的には触れられないのですが、グラフにすることで手触りのある「実体化した存在」だと感じます。

そろばんとグラフは直接は重ならないかもしれませんが「手触りのある」と感じることが大切なように思います。

触れながら頭の中で想像する

20世紀は多くのテクノロジーが生まれ、子供がどのように幼少期をすごすべきかが考えられるようになった時代でもありました。著者はいくつかの例をあげているのですが、その中で「ブロック」に関する記述を引用します。

あるいは、1958年に現在の形で発表されたレゴは、大量生産が可能になったばかりのABS樹脂を使ったブロック型のおもちゃです(素材がABS樹脂に変更されたのは1963年)。このおもちゃのすごいところは、ブロックを組み合わせたとき、しっかりはまって、頑丈なこと。そして、積み木のように積み上げることで、立体をつくる作業を直感的に学ぶことができることです。

レゴではありませんでしたが、私も幼い頃はブロックを組み立てることに夢中でした。最初から何を組み立てるか明確に決まっていることはそれほど多くなく、組み立てるうちに自然と何を組み立てていくかが見えてくるので、その直感に素直に組み立てていた感じです。

思い返すと、ブロックを組み立てる中で「美と対称性」について何かを感じ取っていたのかもしれません。出来上がったものは、上下対称、左右対称、前後対称であったことが多かったように思います。なんというか「おさまりが良い」「整っていて気持ちがよい」と感じていたのかもしれません。

あるいは、小さなビー玉が通り抜ける溝と穴のある立方体の積み木を組み立てて小さな構造物を建てるのも好きでした。積み木と積み木を重ねることで穴と穴、溝と溝がつながり、ジェットコースターのようなビー玉の通り道ができます。

直接は目に見えないところもありますので、穴や溝に何度も触れながら、「こう組み合わせたらビー玉はここを通過してここから出てくる」と想像していました。

何かにふれながら、見えないところを想像していく。触れることで分かる。それは子供であろうと大人であろうと関係なく、いつの時代も変わらぬ営みなのかもしれません。

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