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肯定でも否定でもない〜両否の論理・静観・中庸〜

あれかこれか。白か黒か。

物事を「二項対立」的に捉えることは、日常生活の隅々に根付いているように思います。このように捉えることは「どちらかを選ぶ」いや「どちらかを選ばざるをえない」構造や力学を生み出して、ある意味では「割り切る」というか、何かしらの形での状況の打破をもたらすわけです。

ですが、時にそれは「無理」を生み出すことにもなるのではないか、と思うわけです。本来は割り切れない物事でも割り切ってしまうのですから。世の物事、簡単に単純に割り切れるようなことばかりではなく、様々な要素が複雑に絡みあっている。

二項対立的に捉えることは、新しい考え方を生み出すことにもつながる意味で時には有効だと思います。「正反合」という形で、二項対立を無矛盾で包摂して解消するような新しい枠組み、概念を生み出してゆく契機となることにもなるのですから。

「肯定か否定か」という二項対立的論理が切れ味の鋭い刀のようなものだとすれば、刀を包み込む鞘のような論理をあわせ持つことが、自分や他者と対話し、対立を乗り越えながら生きてゆく上で必要ではないかと思うのです。

インドには古代から「肯定でもなく否定でもない」「肯定にして否定」という論理が存在していたようです。これをこのような論理の存在に初めて触れたとき正直に戸惑いました。なんだかすっきりしないというか、それこそ割り切った感じがしないというか。

それから時の経過と共に少しずつほどけてきて思うのは、この「肯定でも否定でもない」「肯定にして否定」という論理は「一面的に評価しない」ということなのではないかという思いを深めました。つまり、「ありのまま」を「ありのまま」捉える論理なのではないかと。

今日もヨガの話ですが、ある時まで「今日のヨガは良かった」とか「今日のヨガはなんだか良くなかった」と反省していた時期がありました。それは、内省を通じた上昇を志向する姿勢や態度の表れだったのだと思います。

ですが、身体は日によって伸びやかに動く時もあれば、そうでないこともあり、ましてや身体の状態は自分の意識ではコントロールできないところがあり、いつしか評価して上昇を目指すことに辛さを感じるようになりました。

「今日のヨガは今日のヨガだったなぁ」

いつしか毎回毎回をそのように捉えることができるようになっていて、心が軽くなったんですね。この内省は「肯定でも否定でもない」と「肯定にして否定」が共存しているのだと。「あきらめ」でも「割り切り」でもなく、何かを削ぎ落とさずに全てを包み込むように自分の内側に取り込む姿勢や態度。

時にそれは「静観」することでもあり、「保留」することでもあり、「中庸」であることでもあり。

外側から強烈に打破する力(Force)ではなく、内側から少しずつゆっくりと形を変えながら、個々のあるべき線を探りながらなぞるように、しなやかに変えてゆく力(Power)。

そうした力が「両否の論理」には内在するように思うのです。

ここでナーガールジュナの串しているのが、いわゆる「両否の論理」と言われるものである。インド人は人間の思考が、(一)肯定(二)否定(三)否定でもなく肯定でもない(四)肯定にして否定、という四つの場合の組み合わせでできていることを、古くから見出していた。

中沢新一『レンマ学』

これに対してヨーロッパで発達した論理学では、(一)肯定、と(二)否定、だけを取り出して、その二つの論理操作の組み合わせで合理的論述がなされると考えられた。そこからはごく自然に、同一律と矛盾律と排中律という三つの規則が導かれる。このメカニズムはアリストテレス論理学からブール代数とチューリングの計算理論をへて、現代のコンピューターに至るまで一貫して活用されている。それどころか、それが唯一の論理道具になってきた。じっさい現代の論理学は、¬(でない)、^(そして)、∨(または)、→(ならば)、∀(すべての)、∃(存在する)という六つの論理記号を用いるだけで、すべてての論理思考が遂行されている。じっさいそれらを組み合わせるだけで、すべてのロゴス的論述は表現できる。それらの根底に、同一律、矛盾律、排中律という三つの掟が据えられている。

中沢新一『レンマ学』

ところが、インドではそこに(三)否定でもなく肯定でもない、(四)肯定にして否定、という二つの論理道具が加わって、多彩な思考を繰り広げるのである。ナーガールジュナはとくに(三)否定でもなく肯定でもない、を重視した。ブッダの縁起論が説くように、「あらゆる事物は相依相関しあっている」とするならば、ものにはそれほんらいの自性も本体もなく、縁起の網の目の萃点に生起するつかの間の現象に、存在者としての名前が与えられているにすぎないことになる。それゆえ、ものは「ある」でもなく、「ない」でもないようにして、存在している。

中沢新一『レンマ学』

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