見出し画像

夢を諦めたことはありますか?

──今回のテーマは「夢を諦めたことはありますか?」なんですね。

横道 これは頭木弘樹さんのnote連載『​​何を見ても何かを思い出す』で昨日公開された記事「​​人生でがんばりたいのは、そんなことではなかった」(https://note.com/kashiragi_box/n/n3273b7249249)に触発されたものです。

──あれは感動的な記事でしたね。

横道 頭木さんは以前、​​夢の諦め方についての本を出したという体験談を披露します。『絶望書店──夢をあきらめた9人が出会った物語』(河出書房新社)。それにしても、「夢の諦め方」という問題設定だけでもジンジン痺れます。

──ある人とこの本の話題になって、その人は語りだしたと。かつてスポーツ選手をめざして、自分のすべてを賭けていたのに、ケガをして夢は叶わなかった。いまはまるで違う仕事についているけれど、その仕事が好きで、やりがいがあって、結果的には良かったと。夢を諦めたことはぜんぜん残念じゃなかった。

横道 ところが帰り際になって、その人はとつぜん前言を撤回します。「本当はいまだに受け入れられません。選手として生きたかったです。今もがんばっていますが、私ががんばりたかったのは、本当はこんなことじゃなかったんです」
 頭木さんはさっきまで明るかったその人が見せた暗い顔が好きだと感じた。感動もした。私もその場にいたら感動すると思います。

──横道さんは子どもの頃から研究者になりたかったら、夢を諦めなかった人ですよね?

横道 そもそもほんとうは自然科学者になりたかったんです。専門は昆虫か、植物か、天体か、古生物か。発達障害の関係で、あまりにも数学ができなくて、中学時代に「文転」したんです。自然科学者は諦めて歴史学者になろうと思った。

──実際には歴史学者にもなっていなくて、文学研究者ですよね?

横道 ですから私がじぶんのグリム論を、ミネルヴァ書房から刊行できたのは、すごくうれしいことなんですね。ミネルヴァ書房は、歴史学系の本の出版社としては最高峰あたりに位置していますから。

──なるほど。今回の出版には、歴史学者になることを諦めたという夢の痕跡という意味もあると。ドイツ文学者がこのミネルヴァ書房から本を出すことって、そんなに多くないですもんね。

横道 そういうことです。

──同じ本で、グリム兄弟の「植物マニア」ぶりが全体の通奏低音になっていたり、グリム自身には直接的には関係のない当時の宇宙論が問題になったりするのも、自然科学者を諦めたことの痕跡だったんですね。

横道 ご指摘のとおりです。
 なお子どもの頃、医学や心理学にはほとんど関心がありませんでしたが、最近になって発達障害や宗教2世の本で、それらの分野が私の射程に入っている。自然科学系の分野と想定外のかたちで親しくなれたことも、純粋にうれしく思っています。

──心理学が自然科学と呼べるかどうかは曖昧かもですが、なるほどと思いました。

横道 それに研究者になりましたが、学会や研究会の運営側になりたい、教育者になりたい、大学の管理業務に携わりたい、地域貢献などを念頭に置いて研究したいなどとは、まったく希望していなかったんです。むしろできるだけやりたくないと思っていましたから、その意味でも私は研究者になる夢を叶えながら、一介の瑣末な研究者として生きるという夢を諦めているんですよ。

──横道さんがなりたかったのは、プロの研究者というよりは、むしろアマチュアの研究者、いわゆる「日曜研究家」だったのでしょうね。

横道 子どもの頃、山下清の生涯をモデルにしたテレビドラマ『裸の大将放浪記』が好きだったのですが、主人公が「日本のゴッホになりたいんだ」って夢見る場面に深い共感がありました。「じぶんは日本のファーブルになりたい」って思ってましたから。

──日本のファーブルと呼ばれた人は何人かいますね。

横道 私のことは「ファーブルになれなかった男」と呼んでいただきたいです。

──没後、だれかが伝記を書いてくれると良いですね。本1冊が厳しいなら、エッセイ1本とかでも。「横道誠伝──ファーブルになるのを諦めた男」って。

横道 そのとおりです。

──でも研究以外ではどうですか。大きな夢を諦めましたか。

横道 公平に言って、そちらのほうがよほど大きいですよね。苦痛度も人生への影響度も。研究者としてそれなりに活躍できているのは、たしかに夢がかなったと言える面はありますが、「この人とずっと良い関係でありたい」と思っていた人と、何人も決裂してしまいましたからね。

──そんなに苦痛で影響が大きいですか。でも新たな別の良い関係だっていろいろ生まれたのだから、そちらにフォーカシングしてはどうですか。悪いことばかりではないですよ。

横道 『唯が行く!』で強調したように、私は人間ひとりひとりが唯一無二の存在だという見方を強く持っています。ですが、そのマイナスの影響として、去った人を諦めることが、より不得意になっているのかもしれない。

──そうですね。人間がみんな唯一無二の存在だというのはそうでしょうが、人と人同士の社会的な関係ということになると、いくらでも取り替えのきくものがほとんどですからね。「どうしてもこの人じゃないとダメ」というのは、だいたいの場合は幻想だと思います。

横道 こういう「ひとり弁証法」がセルフインタビューの核心的な効果なんだろうね。
 
──弁証法について説明しておくと、正反合の運動ということです。ある定式(正)が、それとは対立する別の定式(反)と葛藤を経験して、先にあったふたつよりも高次の新たな定式(合)を生みだすというもの。

横道 弁証法というと、数十年前の理解ではヘーゲルやマルクスの思想と結びつけられることが圧倒的に多かったようだ。私はヘーゲルもマルクスも好きではないんだけどね。弁証法はプラトンが記録した師ソクラテスの対話にすでに存在していたものだ。

──哲学者のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドが「西洋哲学の伝統の特徴とは、それが一連のプラトン注釈になっているということだ」と発言したのは、哲学研究者のあいだでは有名ですね。

横道 だからこの「セルフインタビュー」でもその弁証法をめざしてきたんだが、ヘーゲルやマルクスの思想がそうだったように、弁証法というのは非常にうさんくさい印象をもたらすことが多いために、なかなか難しいもんなんだね。

──かんたんに出来レースを作れますからねえ。

横道 そのようなわけで、弁証法を諦めることが多い。

──そうおっしゃる心とは?

横道 たとえばカウンセラーは、過去にコレコレのことがあったとしても、それにはこだわらなくていい。現在は別のコレコレがあって状況が変わってるんだから、未来はまた別のコレコレが生まれていくという希望や可能性があるんだ、みたいな論理を紡ぐことが多いだろう?

──なるほど、あれは考えてみると弁証法だったんですね!

横道 まあ、カウンセリングをしている人たちで、西洋哲学の伝統を意識している人はほとんどいないかもしれませんが、そういうことになると思います。
 とにかく、いま言いたいのは、そういうカウンセリング的弁証法を嘘くさく感じることが多いということです。それなのに、じぶんの思考にも混ざってくることがたびたびあって、困っているのです。

──なるほど、だからたとえば、「かつて近くにいた重要な人たちは去った。しかしいま別の重要な人たちが身近にいる。だから未来にはもっと良い人間関係が期待できる」というような論理に抵抗を感じるんですね。

横道 そういうことです。私はむしろ「かつていた人は去り、いまいる人もやがて去り、それは未来にわたってずっとそうだ」という弁証法を考えてしまう。諦めの弁証法です。

──そういうネガティブ思考ってどうやって変えられるんでしょうね。

横道 そもそも変えるべきか否かも含めて、私はこういう「セルフインタビュー」をやりながら、考えつづけているのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?