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思い出15              埼玉へ就職、新人の役割 独身時代 2

M社長は、分析業界で老舗であったN工業に努めていたそうですが、会社名も含めて同族経営であったため、会社の物品などを私的に流用したり、トップを同族で占有したりしていたそうです。
同族の私利私欲のための会社で、嫌気が差し、同様に感じた数名で別のNK会社を設立したそうです。
ただ、NK社も一部の人達が利益を独占するようになり、根本の仕組みから変えた会社を設立するしか無いと感じ、それに共感したYM専務、YK常務と共に独立して、今のG社を創立したと言う事です。
その独立の時に、クロマトグラフィー事業を引き継いだと言う事のようです。
企業を維持し発展させるため、皆で一つに道に向かって、共に進もうをスローガンに、設立されたようです。
経営役員全員の給料公開して、当時では、珍しかった持ち株制度もあり、ボーナスと言う言葉を使わず、得られた利益を社員に分配するため、利益分配金と言う言葉を使っています。
3代目の社長になり、500名近い会社になっていますが、根本精神は受け継がれています。透明な経営で、大会社の割に、何でも上司に言い易い、和気あいあいとした会社と思います。
労働組合はなく、内部通報やハラスメント相談なども最近やっと機能してきたと感じで、これから種々の規則が強化されて、締め付けも厳しくなっていくと思われます。
昔ながら、アットホーム的な緩い感じとコンプライアンスの締め付けとの共存をうまくして楽しさを残しながらさらに発展してほしいと思っています。
入社当時、実質80名ぐらいの社員数でしたが、会社全体および部署毎に種々のイベントが行われていました。
新人は、そのイベントを主体となって手伝うと言うキマリがありました。
年2回、春と秋の社員旅行がありました。
当たり前のように、半強制的な参加で、土日に行われていました。
5月~6月に行われる春の旅行は、全社の人が参加する形になります。
公共交通機関での現地集合やバスチャーターでしたが、本社総務が、場所の手配、準備、会計を行いますが、武蔵工場内での出欠確認や集合場所までの切符手配などは、新人の役目になります。
一番大変なのは、当日の宴会場で種々の準備とコンパニオンの代わりです。
コンパニオンは居ないので、新人がすべて行う事になります。
役員4名と、宴会の世話をする新人の席は決まっていますが、その他はくじ引きで座席が決まります。
宴会席のくじ引き作成および配布も新人の役目です。
すでに、ほろ酔いの先輩達が、くじを無視して座ろうとするのを止めるのが結構難儀でした。
総務からの明朝予定、各種注意事項などの説明、新人は並ばせられて、顔見世、社長の挨拶、専務による乾杯で、宴会スタートになります。
最初は、新人紹介になります。
各自、簡単に自己紹介をしてひとまず終了になります。
その後は、お酒を作ったり、タバコを配ったり、お酌したり、忙しく食べる時間はありません。
また、お酌すると返杯があるので、空きっ腹に飲むので、あっと言う間に酔いが回ります。皆が酔ってくると、グループが出来て盛り上がって来て、一段落します。
そのタイミングで、順番に食事をして落ち着きます。
次に、中だるみを防ぐため、新人の各自詳細自己紹介、一発芸などの新人による催し物が始まります。
それを皮切りに、好きな人達が、カラオケで歌ったりするいつもメンバーによる演芸が始まりますが、誰も見聞きしていません。
3時間ぐらいで、専務の締めの挨拶になります。
宴会場にもよりますが、可能ならば、その場で立って皆で輪になり、労働唱歌である「がんばろう」に社名を入れた歌を合唱します。
また、全国の課長以上幹部及び新任役職者が集まり、4月に開催される経営計画発表会後の慰労会でも、コロナ前までは、歌われていました。
最近はわかりませんが、たぶん、伝統として歌われていると思います。
その合唱後に、手締めで終了となります。
ラーメンなどの夜食券がある場合には、皆に配るのも新人の役目になります。
社長以外は、4~6人部屋になります。
この部屋割を決めるのも新人の役目になります。
同じ部署や同期の人が同じ部屋にならないように、調整します。
普段、会わない専務や常務や部長や課長などの偉い人と同部屋になる事になります。
別途、新人は幹事部屋になります。
幹事部屋には、飲み物やつまみなどを置き、朝まで喧々囂々の飲みが続きます。
当然、新人は、幹事部屋で朝まで付き合う事になります。
その他、初期の頃は、麻雀部屋や囲碁部屋なども設けていました。
最近は行う人が減ったので無くなりました。
昔は、朝湯が始まるまで、あちらこちらで宴会が続きました。
朝ぶろに入り、朝食を取り帰路と言うのが多かったです。
土曜日の行きに観光し、日曜日は二日酔いの人が多いので、そのまま帰路に着くと言うのが普通でした。
翌日よくあるのは、靴に変えるのを忘れて、そのまま室内スリッパで帰ろうとしたり、財布類を金庫にいれっぱなしで出て来たりと言う色んな事が起きるのが 社員旅行あるある です。
社長も最寄りの駅に着いてから、財布を忘れた事が判明し、総務の方が付き添って、そこで皆と別れると言う事もありました。
とりあえず、酒臭いオジサン達が多く、毎回楽しい失態があり、良い思い出になっています。
春の旅行は、全額会社負担になります。
G社では、労働組合はなく、そのかわりに社友会がありました。
会社側とのベースアップなどの交渉事は、社友会が代表で行う事になりますが、創業当時から完全土日休み、当時は、世間と比べて、基本給は結構高くて、世間と同様のベースアップもあったので、不平不満は出なかったと思います。
ボーナスは、世間一般並みでしたが、計画より利益が出ると数万~数十万円ぐらいの新記録賞で、利益が分配されていたので、文句は出なかったです。
入社して、10年くらいは新記録賞が出ていたと思います。
初めて新記録賞が出なかった時には、代わりに日本人形が配られました。
未だに、その日本人形は玄関に飾ってあります。
月1000円の社友会費が集められて、社友会開催のリクレーションなどに使われています。
入社当時は、その一つが秋の旅行で、事業所毎に行われていました。
秋旅行においては、会社から半額の補助がありました。
この秋旅行は、新人が行うのが習わしでした。
春と違い、場所、方法などすべて、新人が行うと言う大変な作業でした。
私とON君が幹事で行う事になりました。
予算もあまりなかったので、遠くに行くのは難しく、山梨ワイン工場や群馬こんにゃくパークや秩父ミューズパークなど安価で楽しめるところなどを検討しました。
山梨とか群馬では、バスチャーターが必要で予算オーバーになり、電車で直接行ける西武沿線の秩父にしました。
宿泊して宴会する旅館を決めてしまいました。
その旅館で西武観光のバスツアーがある事を初めて知りました。
秩父駅の西武観光に相談したところ、西武特級列車、手打ちそば昼食、長瀞ラインくだり、秩父神社という20名以上ならば貸切にできるバス観光ツアーがある事が確認できました。
旅館もセットできるようでしたが、すでに予約しており後の祭りでした。
武蔵工場の連中は、西武沿線に住んでいるので、西武特級で秩父まで簡単に行けるので、問題なく、バス内飲食セットもあり、西武観光ですべて用意してもらえたので、乗り遅れが無いようにするだけで、特に問題なく無事に秋旅行を終える事ができました。
当時は、ネットの無い時代ですので、直接現地に行って確認することになり、西武観光のツアーバスの存在を知るまで大変でした。
近くの西武観光でも、予算に応じて色んなツアーがある事を知りました。
最初から、知っていればもっと楽だったと思います。
今ならばネットで簡単に調べられる良き時代で、幹事代行まで存在しています。
新人時代には、いっぱい苦労した方が良いと思いますが、昭和爺の考え方ですかね。

その秋の旅行も、人数が増えてくると予算面で難しくなり、数年後には無くなりました。
ボーリング大会などのレクリエーションに変わり、社友会費も500円になっています。
コロナでそのレクリエーションも無くなって、残念ながら昨年は、復活していません。
会社全体の春旅行もなくなり、10年毎の記念行事に変わっています。
20周年の時には、新設した福島工場見学を含めた福島観光旅行でした。
新幹線で福島駅集合で、そこからチャーターバスで、30分ぐらいの郊外にある福島工場に行き、工場見学し、その後五色沼で昼食を取り観光して、飯坂温泉聚楽で宴会宿泊と言う記念行事でした。
その時、私は福島工場立ち上げで、単身赴任中だったので、受け入れる側として、全国から集まる全社員を歓迎し、工場案内を行なった事を鮮明に覚えています。
聚楽では、新人研修以来、同期が集まり夜遅くまで、酒を酌み交わして楽しみました。
30周年は、六本木プリンスホテルで、30周年記念パーティーを行い宿泊しています。
夜は皆個々で、街に繰り出したのですが、会員制のプレイボーイクラブで楽しみました。
先輩が、クレジットカード会社からの招待券があったので、それに便乗させてもらいました。
バニーの恰好をしていますが、六本木らしく、綺麗系で落ち着いた女性ばかりでした。
グラスビールとキスチョコが、2000円でもっとも安く、別途席料が取られると言う高級クラブでした。
別途、個室がありましたが、バカ高い金額のようでした。
招待券があり、席料が4名まで無料で、2杯飲んで1時間程度、目の保養をして、高級感を味わいました。
40周年は、箱根で行われましたが、母親の入院があり、参加できませんでした。
50周年は、グランドプリンスホテル高輪で、パートさん、契約社員を含めた全社員が集まったパーティが行われています。
会場までの螺旋のスロープは、無駄に豪華でしたが、500名以上が、一か所に集まるパーティは壮観でした。
また、これらの会社行事とは別に、武蔵工場で7月末に、ビヤガーデンが開かれていました。
入社当時は、銀行とか重要代理店などを招待して、大々的に行われていました。
新人も全国から集まって準備を手伝います。
舞台が作られ、提灯などが飾られ、焼きそば、焼き鳥、バーベキューのプロパンガス調理器が3台準備され、ビールサーバーを借りてきます。
ビニールプールに氷を入れて、その他の飲み物が用意され冷やされます。
ビールやそれらの料理の給仕は新人の役目になります。
また、花火や水風船も子供向けに用意されていました。
そして、部署対抗および個人参加で、種々のアトラクションが披露されます。
1位には10万円、2位には5万円、3位には2万円の社長賞が贈られていました。
開発では、女装するファッションショーや映画のワンシーンの実現、オリンピック競技の実現などの出し物が行われました。
その内容の流れとオチを草案するのは、いつも同期のOさんで、音楽も担当し、徹夜で準備してくれていました。
そのおかげで、観客の受けが良く、いつも上位で賞金を取っていました。
ファッションショーでの私の妊婦さんは、入社当時太っていたのを知っている社内の人間には、受けが良かったと記憶しています。
常に受けるのは、普段では絶対に見れない担当長の面白い姿です。
開発YA部長のエマニエル婦人は、厚化粧でのスリットの入ったスカート姿で、椅子に座って、足を組み替えるシーンは凄く印象的でした。
また、製造のSO課長のCMで流行っていたエリマキトカゲの走る格好も、未だに鮮明に覚えています。
そのSO課長は、2代目の社長になるので、貴重なパフォーマンスでした。
6時から始まり、8時半に中締めになり、お客様は9時には帰られます。
それからは、各自が羽目を外して楽しむ時間となります。
カラオケなど夜中まで続きます。
工業団地であったため、民家はなく特に騒音などの問題はありませんでした。
私も酔っぱらい、ビニールプールにダイビングしたことがあります。
財布がびしょびしょになって、後が大変でした。
夜は、エアパッキンと段ボールを引いた会議室などで雑魚して、翌日の土曜日に片付けを行います。
その時に行うスイカ割は、結構楽しく、美味しかったです。
福島工場ができた後は、メインのビアガーデンは福島に移りました。
ただ、武蔵では、出し物は行いませんが、ビールサーバーを借りて、焼きそばなどを作っての簡単なビアガーデンは、コロナになる前まで続けられました。
今年、4年振りに行われるかはまだ不明ですが、定年退社した今では、ビアガーデンは懐かしく感じます。
色んな楽しいイベントが行われたG社は、結構楽しかったです。

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