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思い出9 高校生活から無理をしない大学受験

四日市高校は、近鉄四日市駅から電車で約15分の富田駅の目の前に位置する名門の公立高校です。在籍生徒数は約450名で、12クラスに分かれています。
進学校であり、男女比は男性7割、女性3割でした。3年生になると、私立文系、国立文系、私立理系、国立理系の4つのコースに分かれ、14クラスに編成されます。
この学校は三重県内でトップクラスの進学実績を誇り、東京大学には約10名、名古屋大学には約50名が進学しています。さらに、慶應義塾大学や早稲田大学、同志社大学などの有名私立大学にも多くの生徒が進学しています。
ただ、理系の進学校に絞ると、高専がトップになります。高専は専門能力を高める5年生の教育機関で、各地域にある国立高専は理系では高い水準を誇ります。
3年生時点で大学への編入も可能であり、実際に東京工業大学や東京大学への編入者も存在しています。
そのため、高専間にレベル差があるものの、地域ごとにトップクラスの評価を受けています。
したがって、理系の私にとって、高専に進学された紗倉まなさんは、憧れの的になります。
そのため、還暦過ぎた今でも、お会いすると舞い上がってしまい、しどろもどろになってしまいます。
話がそれましたが、四日市高校は名門校であり、その名前だけで高い評価が与えられます。特に年配の方々にとっては、甲子園初出場、初優勝を飾ったと高校としても有名です。年配の方々にとっては、甲子園初出場、初優勝を飾ったと高校としても有名です。
私が生まれる前年ですが、甲子園常連の中京商に勝利し、初出場ながら優勝したという快挙は、四日市市民の誇りとなっています。
また、この学校は学生運動の先頭に立ち、長髪の許可を勝ち取った三重県で初めての学校でもあります。中学校・高校では当時丸刈りが一般的でしたが、学生たちが署名活動を行い、校則の撤廃を求めた結果、長髪が許可されることとなりました。
私が入学した当時でも、他の高校では、襟までなどの校則は残っていましたが、四日市高校においては、何の規定もなく長髪は大丈夫で、肩まで長髪の男子が多かったです。
その長髪のためか、がり勉学生のイメージな無く、文化祭での仮装行列には近隣の人が集まっていました。
城や鯨や海賊船などの大きなはりボテと仮装して、桜並木の川べりを四日市北高校(当時定時生高校)まで行進していました。
そのはりボテは業者が買い上げることもあり、品質の高いものもありました。その夕方には、校庭ではりボテなどをすべて燃やし、キャンプファイヤーにしてフォークダンスをするという昭和時代の定番の文化祭が行われました。
北高も合わせて約1500名ほどの生徒がおり、迫力のあるキャンプファイヤーで幾重にもなるフォークダンスが披露されました。
2週間前から放課後は、これらの準備で大忙しく、教室の後ろや廊下にははりボテが溢れかえっていました。
すべて忘れて没頭できる楽しい2週間でした。
1学年450名居たので、同じクラスになった一部の人としか名前は覚えられませんが、3年生になると受験準備が始まって あっと言う間に過ぎ去る高校生活でした。
昨年、コロナの影響で2年遅れの65歳同窓会が、四日市 都ホテルで開かれ、約110名が全国から集いました。コロナ前に行われた還暦同窓会や東京地区同窓会、そして2週間前に開かれた中学校同窓会で会っており、すぐに分かる人や50年振りでまったくわからない人など、昭和の老人たちが、昔を懐かしんで楽しみました。
次は、3年後の70歳同窓会と言って分かれましたが、私も含めて元気で集まれるかは疑問ですが、楽しみです。
進学校のため、学期毎に中間、期末試験の年6回の定期試験があり、年3回の実力テストがありました。
また、有料の外部試験として全国模擬試験が年5回程度開催されていました。生徒はそれぞれ5校まで、目標の大学及び学部を設定でき、それらの合格率が提供されていたため、日曜日に有料で開催される模試にはほぼ全員が受験していました。
1年生の時までは、試験毎に上位50名の名前と全員の偏差値が掲示されていましたが、2年生からはそれが中止され、代わりに名前無しの偏差値のリストだけが貼られるようになりました。ただし、クラス別に分かれていたため、上位の生徒は誰かはほとんど分かっていました。
入学式や卒業式では、答辞を行う生徒がおり、偏差値が80近いという、ダントツのトップの生徒がいました。彼は全国模試でも常に10番以内に入り、現役で東京大学に合格しています。
過去の大学ごとの合格者・不合格者の偏差値が記載された資料があり、そこから合格と不合格のボーダーラインの偏差値がわかります。
ただし、大学や学部によっては人数が少なく当てにならないこともありますが、歴史ある進学校の強みを活かして、これを参考にして目標大学を設定することが一般的でした。
私自身はギリギリ合格だったので、1年の時の偏差値は350番前後でした。
中学校の後半からお世話になっている家庭教師のおかげで、2年生の時には、中の下ぐらいの偏差値である250番前後にまで上がりました。
数学の偏差値は58ぐらいで、英語と物理が50弱、国語・社会・化学が40前後というアンバランスな形でした。
3年生になると、目標大学に応じて、私立文系、国立文系、私立理系、国立理系のクラスに分けられます。私は私立理系も受けられる国立理系クラスを選択しました。
数Ⅲ、物理、化学、英語、世界史、国語・漢文という選択をしました。
数Ⅲと物理は50以上の偏差値がありましたが、化学の元素記号を覚えることができず、40という成績が致命的でした。
そこで、お袋が3年生の時に2か月間集中して、本格的な化学の指導を受けるために専門の家庭教師を雇いました。
その結果、化学の成績が急速に向上し、理解が深まり、偏差値が55ほどに上がり、平均的な成績になり、国立大学にも進学できるようになりました。
この勉強の経験によって化学に興味を持ち、その後40年間、化学系の職に従事することになりました。
きっかけによって人生は大きく変わるということを身をもって体験しました。
当時は、国立大学は1期校と2期校があり、それぞれ1校ずつ2回受験できました。私立大学は日程が異なればいくつでも受験できました。
勉強が苦手なため、浪人する気はなく、私立大学をたくさん受験しました。
結果は次の通りです。
同志社大学〇(模試判定C+)、立命館大学〇(模試判定B-)、東海大学(海洋学)〇(模試判定A)、京都産業大学×(模試判定A+)、慶応大学×(模試判定C-)。全国模試での判定では、Aは合格の可能性が大きく、Bは半々、Cは不合格の可能性が大きく、Dは難しいとされています。
そして、各段階の中で、+や-が付くことで評価されます。京都産業大学は「あのねのね」の出身校として有名になっており、そのことに興味を持って受験しました。
東京の試験会場で受験する際、家庭教師の友人にお世話になることになりました。
しかし、その友人が急用で遅れることになり、大家さんに部屋に入れてもらって待つことになりました。
午後10時頃に帰って来て、それからスナックに行って、午前1時頃まで飲食を楽しんで、その日受験になります。
合格を確信しすぎて気が緩んでおり、結果は見事に不合格でした。
担任の先生もかなり驚き、合格者のリストに高い偏差値の不合格者がいることで、受験生を混乱させる汚点となったと思います。合格判定100%で、気の緩みもあり遊び気分の受験だったので、見事不合格でした。
担任の先生も、結構慌てており、合格者表にも、高い偏差値で不合格と言う、受験生を迷わせる汚点になったと思います。
その京都産業大学を除けば、ほとんど順当だったと思います。
当時は、国立大学の合格発表前に、入学金と前期授業料を支払う必要がありました。
これは私立大学にとっての財源の一つでした。
国立大学の入学金は5万円で、授業料は3万6千円でした。当時は、私立の授業料が8倍ほど高かった時代であり、国立大学の授業料を引き上げようという動きもありました。
理系だった当時は、初年度の学費は同志社が約30万円、東海大学が約40万円、立命館が約20万円でした。理系の平均が30万円前後であり、文系の平均が20万円前後でした。
現在では、私立理系の初年度の学費は平均して156万円で、その内訳は入学金が25万円(半期分の授業料78万円)です。私立文系の初年度の学費は平均して118万円で、その内訳は入学金が22万円(半期分の授業料59万円)です。医学系の場合、初年度の学費は平均して490万円で、その内訳は入学金が110万円(半期分の授業料245万円)です。
国立大学の場合、学部の差はなく、入学金が28万2000円、年間の授業料が53万5800円とされています。
大学費用は物価上昇を上回る速さで上昇しており、多くの学生が大学進学後に修士課程などの学位を取得することが一般的になっています。子供を大学まで進学させるためには膨大な費用が必要であり、そのため少子化が加速していると考えられます。共働きであっても、社会保険などの負担が増え、2人目を持つことが難しい社会状況になっています。
また、岸田内閣が推進している「こども家庭庁」も、実質的な成果が見られず、税金の無駄遣いになっているとの批判もあります。
岸田内閣が日本の将来を考える上での失敗を象徴していると感じる人もいます。
このような状況下で、国民の生活を改善し、住みやすい社会を実現するためには、岸田首相の早期退陣と、新たな方針のもとでの再スタートが必要だという声があります。
話を戻します。
当時は、入学金や前期授業料を先払いする必要があり、それらは返金されないという時代でした。
そのため、国立大学の授業料が比較的安かったため、浪人を避けたい人たちは、すべり止めとしても納得してこれらの費用を支払っていたと思います。
一方で、授業料が安い国立大学や慶應、早稲田などの有名私立大学を目指す人や、最初から浪人覚悟の人も多かったです。実際に、約2割近くの人が浪人して次の年に再受験しています。
私自身も浪人するつもりはなかったので、すべり止めとしてどこかの私立大学に入学金を支払うことになりました。
東海大学の海洋学部には興味がありましたが、最終的にはみんなが薦めるネームバリューの高い同志社大学に進学することにしました。当時、同志社大学は関西では「西の慶應」とも称され、そのネームバリューは非常に高かったです。
すべり止めの大学は確保できたため、国立大学を選択することになりました。
近隣の国立大学のレベルとしては、
国立1期名古屋大学> 国立Ⅱ期名古屋工業大学 > 国立Ⅱ期静岡大=国立1期三重大 >Ⅱ期 岐阜大 と言う形でした。
実力から判断すると、国立1期校の三重大学に加え、2期校の選択肢として名古屋工業大学や岐阜大学が挙げられました。
三重大学に合格したことから、2期校ではレベルの高い名古屋工業大学を受験することになりました。
しかし、すでに合格していることから、気が緩んでしまい、問題への集中力が欠けてしまいました。
当時は、共通一次試験がなく、各大学が独自の問題を出題していました。数学の試験では、例えば5問から3問を選んで解くという形式で、制限時間は3時間でした。その中で1問は証明問題であり、かなり難しいものでしたが、なんとか対処しました。

しかし、試験中に集中力が切れてしまい、2問目の途中までしか解答できませんでした。
2日間にわたる試験でしたが、数学の試験が終了した後は、すでにあきらめムードに包まれていました。
試験終了後、名古屋駅前で先代の貴乃花の相撲放送を見た記憶があります。
その日は優勝のかかった大一番で、人垣ができていましたが、数学の受験が終了時点で、すでに、あきらめムードでした。
合格の知らせは、当時は電報で届きました。合格者の受験番号が貼りだされる形で基本的に合格が発表されました。ネットが普及する以前の時代であり、学生たちがアルバイトとして電報を送る役割があったと思われます。このサービスには別料金がかかりました。
結局、名古屋工業大学の電報は、“サクラチル”になり、三重大に入学することになります。
親には、家庭教師代や私立入学金など、かなりの散財をさせたと思いますが、実家から通える国立大学に年間3万6千円の授業料で入学できたので、元は取れたと思います。高校時代は初めての海外旅行も経験し、受験もありあっという間の3年間でした。
受験生であるにも関わらず、深夜ラジオを聴きながら猛勉強したという感じはありませんでした。テレビっ子だったため、勉強をしながらテレビを観たり、ベッドに横になりながら勉強をしたりすることが主でした。家庭教師などの先生方のおかげで受験を乗り越えることができました。
勉強嫌いは今でも変わっておらず、しかし逃げ道を感覚的に作れるようになり、定年まで楽しい人生を過ごすことができています。
昭和時代と現代では異なりますが、性格によりますが、わがままな私は、好きな科目を見つけてそれを伸ばしながら、残りの科目は無理せずに惰性で楽しんで、受験を乗り越えました。野麦峠のような反復の受験勉強でしたが、個々人がどこかに楽しみを見つけ出すことが重要だと思います。

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