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「~ちゃんを救う会」に思う。大事なのは、その人を信頼できるか。

たまにニュースで「~ちゃんを救う会」ってあるじゃないですか。

重い病を患って、治療する手立てはあるけど途方もない費用が必要で、一般人だからとても払えなくて、クラウドファンディングする、みたいな。

普段だったら一つ一つを気に留めていたらキリがないということもありますし、杜撰な運営実態が少なからずあるみたいな話もあるので気にも留めないのですが、今回は様子が違いまして。

10年くらい前に、リーダー会議で同じグループに居た方だったんです。

妙にこの「~ちゃんを救う会」の話がSNSのタイムラインによく出てくるとは思っていましたが、両親の名前まではその時まで分かんなかったんです。

さすがに驚きました。

こんな形で困難に巻き込まれてしまう方が居るとは。
しかも、身近で。

日本で可能な限り治療を受けたけど、もうそれ以上はどうすることも出来なくて、調べてみたら海外には治療する方法があることが分かった。

そんな風に書いてありました。

でね。
私、考えたんですよ。

これ、私はどうすればいいんだろう?
って。

基本的に正義感が強いので、こういうことが起きるとどうしても自分の中の問題意識が芽生えてくるんですよね。捨ててはおけないってことで。

じゃあ、どう処理すればいいのか?と考えると、自分が関わった人が助けを求めているということに対して力になりたいという想いがまずは出ています。

そのまま突っ走っちゃってもいいんですけど、今度はもう一人の自分が現れます。

それは、納得感が得られないと行動出来ないという自分です。

結局ね、目の前の小さな命が潰えるかもしれない、そして高額が必要という困難に直面していたとしても、突っ走れなかったんです。

何故なのかと考えたら、冒頭にも述べたように、この手の話は怪しげなものも少なからずあるということも一因でしたが、少し深堀して考えました。

すると、自分の中で整理出来なかった点として、この治療法が果たして本当に有効か?ということが全く分からなかったんです。

救う会のクラウドファンディングサイトにはどのような治療を受けていて、そこで曲がり角に来てしまって、その結果、海外のこの治療法に辿り着いたという経緯が書いてあるんです。

ただね。
それでも分からないんですよ。

専門的な知識、特にそれが医学になると、その妥当性って分からないんですよね。どんなに丁寧に書いてあっても。

理解しようと思えばそれも可能なのかもしれないですけど、ざっと見た感じではそれが見えなかったんです。

自分の中で咀嚼できないことに対して果たして首を突っ込んで良いものか?と考えると迷いが生じてしまいました。

そうなってくるともう一つ疑問に感じるのが、この治療計画です。

高額が必要で、その費用負担に対して応援を求められている。しかし、果たしてその費用がどんな風に使われるか?ということについても分からなくなってくる。

過去にはこの手の救う会では会計が杜撰で、クラウドファンディングに成功しながらも全く会計報告が無かったなんて話もありました。

そう考えると、治療法もこのプロジェクトも、妥当なものなのかが全く分からなくなってしまったんです。

医療に関することなので、本当に難しいんですよね。

医療的な背景を理解したうえで支援するということも、会計的な妥当性を咀嚼することも、自分のような素人には出来ない。

となるともう、医療計画、そして資金計画の信頼性についてはその人自身の信頼性でしか判断するしかないのではないかと思いました。

現在このクラウドファンディングについては順調に進行しているようです。ペースを考えると恐らくですが、達成するのではないかと思われます。

変な話ですが私が支援してもしなくても、命を救う可能性が残されている治療は受けられる状況にある、ということです。

こういう難しいことを考えた時に、結論というのはその時の状況や感情的な部分によって変わってくるものですが、今の自分には余程近い人物でなければ支援するには納得感は必要だと感じました。

何が正しいのか。
正しさを超えて行動する必要があるのか。

理屈で考えると腰は重くなってしまいがちです。今の立場が、正しさという視点も加味すべきだからなのかもしれません。

どんな命も等しく救われてほしい。
そして、その手立てが適正なものであってほしい。

どう結んでよいか悩ましいのは、救えるかもしれない命の行方が不透明だからだと思うのです。

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