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段取りが決まっていることをプロレスと言うのは何が悪いんだろうか

国会議員の「プロレス」という発言が物議を醸しています。

プロレスラーの方もその発言を示唆するような形でかなり感情的な投稿をされていましたし、それに呼応する形でファンの方も議員の方に対して怒りをあらわにしているという状況なのです。

ここで言うところの「プロレス」というのはつまり、実は段取りが決められているということを意味しているんですよね。

例えば、バラエティ番組であるタレントさんが容姿や彼のバックグラウンドをいじる。それに対してキレる。

不穏な雰囲気が出てきたところでアイドルがちょい怖い感じになったところをこの2人と親しい人が「ああ、あれプロレスだから」と評して安心させる。

みたいなイメージです。

いつからこういうものを「プロレス」と評するようになったかも定かではありませんが、少なくとも43歳の私が子供の頃はプロレスなんていう表現はしていなかったんですよね。

まぁあの頃ってプロレスに対して「あれはやらせだ」みたいなことを指摘すると本気で怒る方も居ましたし、実際父はこれで兄弟げんかをしたことがあると生前話していました。

恐らくきっかけはプロレスの構造を関係者の方が明かした本が出版された当たりのことだと思うんですよね。

恐らくこれか。
「流血の魔術 最強の演技」(ミスター高橋著)

陰でまことしやかに囁かれていたことが、関係者によって公になった。そのあたりですかね。プロレスを段取りのあるものの例えに使うようになったのは。

恐らくですけど、芸人さんの業界用語みたいなもんだったと思うんですよね。最初は。それをテレビ越しに公然と表現するようになって、一般化していった。

そもそも一見リアルに見えて、実は段取りが決まっているみたいなことって一般社会ではそうそう無い訳ですよね。

ただ、やっぱりこの「プロレス」っていう表現が断続的に使われるっていうのはこの表現が持つ分かりやすさみたいなものに起因しているとは思うんです。そうでなければ廃れちゃいますからね。

一方で気にしていることもあるんです。

それは、段取りがある物事のことを「プロレス」と評すると、なぜそんなに普段穏やかな方ですら見たことも無いほど怒りをあらわにするのか?

ってことなんです。

私は小学校卒業位の頃から全日本プロレスを観るようになって、相撲に興味を持つと共に一旦離れて、ここ最近拳王選手のYouTubeきっかけでまた戻ってきまして。

プロレス、大好きなんですよ。

そしてね、仮に段取りがあろうとも、それを「プロレス」と評されてもまるっきり気にならないんです。

なんでかなーって思ったら、段取りがあるとか無いとかそれ以前の話として、凄いじゃないですかプロレスって。

私に言わせたら段取りがあることによってプロレスの名誉って別に落ちるものではないと思うんですね。

普通の格闘技は相手の良さを潰し、自分が勝つためにどうするかを考えますけど、プロレスの場合は相手の凄さを受け止めて、それを上回ろうとする。

だから、お互いの良さが出る。
これはプロレスでしか味わえないものです。

プロレスラーは文字通り命がけでプロレスに臨んでいます。だって、受け身を間違えたら大けがしますし、障害残る可能性もありますし、命を失うことだってあり得るんです。実際そういうレスラーの方も何人も居ます。

他にもたくさん仕事がある中で、プロレスラーであることを選び、私たちを楽しませてくれている。

そこに段取りがあっても無くても、その事実に変わりはない。あくまでも個人的にはそう思うんです。

私はプロレスに最近戻ってきた身なので、どういった部分で感情を害しているのかということは分からないですし、これを読んでいるプロレスファンの方に私と同じ考えをすればいいじゃないか説得する気も無いです。

これは私の推測になってしまいますけど、「本気に見えるけど段取りが決められていること」に対する半笑いというか、揶揄みたいなものがあって、その感情をたとえ表現である「プロレス」に対しても行っている、ということじゃないのかなとは思います。

まぁ大体、プロレスっていう言葉を例えとして使っている人って、ちょっと小ばかにしたところを感じる時はあります。純粋に例えているケースもありますけどね。

プロレスっていうのは愛すべき競技なんですけど、理解が無い人は特にナチュラルに見下してくるところはあると思います。それは相撲然りなんですけどね。デブがちょんまげ結って殆ど裸で闘っているみたいな言われ方にも似ているところがありまして。

自分がよく分かっていない世界について、あまり本心が見えてしまうような表現ってするべきじゃないよなぁっていうのは思いました。

その昔、ミュージカルって喋りながらいきなり歌いだすのはおかしいだろみたいなことが結構市民権を得ていた頃もありましたし、卓球はネクラみたいな言われ方をしていた時代もありました。

そういう表現が不本意ながらも笑いとして通ったいた時代は良かったのかもしれないですけど、SNSで多くの方が様々な反応をする時代ですからね。もうそういう無礼な見方を笑いにする時代って終わったんですよ。

だからね。

今回は段取りが決まっているものに対する「プロレス」という表現の是非という形で表面化しましたけど、これ別に「プロレス」っていう表現を止めたからおしまいっていう訳じゃないんですよ。

そしてね。

今は「プロレス」という言葉に対して反応して怒っているプロレスファンの方でさえ、異なる業界に対して同じことをしてしまっている可能性もある。

これ、本当に大事なことですよ。

誰がどこでどういう想いを抱いているか分かんないんですよ。「プロレス」という表現に怒る方の真意が分からない以上、私もその立場の人だということです。

だから。

少なくとも自分の中で「これは無礼に感じる人が居るかもしれない」という物言いに関してはブレーキを掛けられるように気を付けようと思います。

それを窮屈だ、いやな時代だと感じる人も居るかもしれない。でも、それは2023年を生きる人類に求められているデリカシーなんです。不満を語っても時間は戻せないのですから。

今の時代の在り方に文句を言う前に、時代に適応する道を私は選びます。そして、プロレスを今まで以上に愛し、表現には留意します。

一方でこんな風にも考えています。

私は別に相撲をどんなに揶揄されてもどうも思わないんですよね。いちいち腹を立てていても、キリが無いんですよ。

誰かが失言したり、SNSで失礼な発言をしている人が居る。そんな奴を絶滅させるなんて無理なことなんです。

私たちが公に発言していることっていうのはあくまでも、言っていいことだと判断していることに限定されています。

つまり、言わないだけで誤解していることだってあるし、揶揄していることだってある。心の中まで規制するなんてことは出来ないです。

失礼を働かないというエチケットも必要ですけど、わざわざ腹を立てたり、さらし者にしたり、不愉快を盾に罵詈雑言を言うこともまた、それはそれで違うと思うんですね。

誤解はされるものだし、自分もし得るもの。そう思うと無礼は許されざることではあるんですけど、気持ちは楽になるし、受け止め方は変わってはくる。

恐らくこれについては、自分が傷つける側になった時に真摯に向き合えるかっていうとそうでもないと思うんですよ。

え?
そこ怒る?

って。

どこかで自己弁護は発生してしまうのは変わらないんですよ。自分が怒っている時はなんでそんなことも分からないんだ?って思うけど、全てに対してそこまで思いが行き届くわけではない。

誰もが少しだけ寛容になることによって、このネット社会は生きやすくなると思うんですよ。

失礼は働かない。
そして自分は多少のことは大目に見る。

それくらいが丁度いいと私は思います。
何故かって?
その方が私が気楽だからですよ。

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