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忘れ物班と遠藤先生。

忘れ物班と先生

忘れ物班とは、その日忘れ物した人は先生の机に自分の机を付けたまま1日過ごす班である。

小学2年生の頃、20代の男の先生のクラスになった。

当時、ポケモンが爆発的に流行っていて、「ポケモン言えるかな」を授業の一環でしたり、今思えば斬新なことを行動に起こす先生で、子供達からは大人気だった。

だけど、意地悪な事をした子に給食抜きにさせて問題になったり(後から母に聞いた。)

ベテランの先生と対立してた記憶があるので、学校では少し問題児っぽい先生だったような気がする。

先生は当時若かったし、養護学校から来たのもあるのか、既存の事をするより、その子にあった事、そのクラスが喜ぶ新しいことをどんどん実行する先生だった。

学生時代、思い返してみると余り先生に恵まれなかったと思う。

だけど、この先生だけは良い意味で強烈に記憶があり私に合っていた様に感じる。

小学生ってマルチタスク過ぎませんか

小学生って、毎日教科書を持って帰って、明日の分を持っていかなきゃいけないし、それに体育着や給食着、上履きも持って帰って洗濯したり、道具箱の備品管理、図工や音楽に必要な物リストなど

とにかく毎日持って帰るモノ、持っていくモノが多すぎる。

子供の頃から自己管理を育てようという事だと思うのだが、私のようなADHDを持ってる人、発達障害の人にとってアナログな自己管理はきつい。

プラスして、親に三者面談のお知らせや伝えることを渡すようにと、紙が当時は配られていた。

今は、PDFで直接親に送られる時代になったのだろうか。

私は毎度ランドセルの底で教科書に潰され、グチャグチャになったお知らせという名の紙たちが溜まっていき、親に定期的に怒られていた。

中学生の頃くらいからロッカーに教科書を置けるようになった気がするが、あの小学生の頃の持って帰る習慣はなんだったのか未だに謎である。

子供の頃から忘れ物が多く、小学生の時は忘れ物班から抜け出せなかった。

教科書もよく忘れて隣の子に見せてもらってたし、体育着とかも忘れてよく借りてた。

図工の次回持ってくるモノも毎回忘れるが、必ず多めに持ってくる優等生な子がいて、当たり前のようにその子に毎度貰ってた気がする。

音楽袋や給食袋も用意しても、玄関で忘れて置いてってしまう事もよくあり、ひどい時はランドセルを忘れてよく家に戻っていた。

ここまで聞くと、もうADHDフルコンボって感じだが、もちろん道具箱もぐちゃぐちゃである。

自己管理とは?と小学生の自分に問いたい。

でも、社会で生きていくとは不思議だ。

それでも生きていけるのだ。

末っ子なのもあるかもしれないが、自分ができないことを人に頼る事に私は抵抗がなかった。

忘れ物する事がダメな事だと思わなかったのだ。

それは、忘れ物班の影響が大きい気がする。

冒頭で話した小学2年生の時の男の先生を仮に遠藤先生と名付けるとしよう。

小学生の時って班ごとに分かれて作業したり、給食食べたりすると思うのだが、毎日忘れ物してた私は、遠藤先生の机に付けたまま授業も給食も過ごしていた。

忘れ物班とは、その日忘れ物した人は先生の机に自分の机を付けたまま1日過ごす班である。

今の時代、パワハラとか言われそうな案件だが、私は嫌な記憶が一切なく、むしろ気楽に楽しく忘れ物班を過ごしていた。

ちなみに先生の机は大概が教団の横くらいの位置にある先生が多いのだが、遠藤先生は廊下側の真ん中に置いていたので、先生の机に付けたまま授業していても余りプレッシャーは感じた記憶がない。

おそらく、最初は恥ずかしかったが、毎日なので慣れたのもあるし、先生が面白いので特別感をむしろ感じられた。

とにかく明るくユニークで忘れ物が多かったからといって怒られた記憶もない。

むしろ、忘れ物しなかったらめっちゃ褒められてたような気もする。

忘れ物レギャラーな自分は、私以外の忘れ物した人がいると机にくっつく人がどんどん増えるので、密かに仲間が増えた事に嬉しく思っていた。

ユニークさは自己肯定を育む

遠藤先生は私が高学年になる頃には違う学校に転勤になった。

だけど、自分の受け持った生徒の小学校、中学校の卒業式は必ずいた。

自分たちの代は小学2年生の期間だけだったが、中学校の卒業式の保護者席を見渡すと、当時の若い面影と違い、白髪混じりだけど変わらずギョロっとした眼光の遠藤先生が、真っ直ぐ生徒達を見ていた。

小学校低学年の1年だけしか過ごしてないが、私の中で記憶に残っている先生はこの人だけだった。

基本的に日本の教育は発達障害傾向のある人は大概が合わない。

今は自分の時代より、過ごしやすく少しはなってるかもしれないが、基本的にみんなと一緒に過ごすという軍隊教育の根本が変わらない限り、息苦しい子は出てくるだろう。

それも自分の経験になり、乗り越えられれば良いという考えもあるが、幼少期の辛い記憶というのはトラウマになる確率も高く、大人になっても精神的な弊害になる事がある。

そんな時いつも、金子みすゞさんの「みんな違ってみんないい」が頭に浮かぶ。

私の子供の頃は、まだ発達障害の認知がそこまでなかった。

最近ではHSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)

が繊細さんという言葉で広がり、発達障害グレーで悩んでた多くの方が、コレだったのかと救われた人も多いと思う。

HSPは病気ではなく気質と言われているが、マイノリティという大きい枠で考えると、発達障害やLGBTQ、また何らかのハンディキャップ持ってる方など、認知は昔より広がってるとはいえ、

マイノリティの人に対して、そんな何でもかんでも枠に入れる必要なくない?というのをマイノリティ側の人でも聞くことがある。

ただ、自分の何か他の人と違うなという感覚や行動、思考を一文字で説明できる言葉があるという事は救われることがある。

これもマイノリティの人全員が感じる事ではないし、そもそも全ての人が何らかのマイノリティに属しているのだと認知する事が大事だと思う。

お互いのオリジナリティを認め合い、相手に肯定されて自分が初めて肯定できることもある

私が一見炎上しそうな忘れ物で知らぬ間に自己肯定感が生まれていたように、自己肯定感とは「それで良いのだ」と良い悪い関係なく、今の状態を肯定できる感覚なのだ。

よく、自己肯定感を上がる為には‥などあるが、豆腐メンタルな人ほど自己肯定感を上げようとするとその反動で、元より下がる人がいる。

生きづらさの解消として自己肯定感を上げたいのならば、ユニークさを育む方がよっぽど生きるのが軽やかになり、自己肯定感を育む。

「それでいい、その代わり忘れ物班な」と

忘れ物班というシステムはいい塩梅で、小学生の私に罪とユニークを教えてくれたのだ。



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